『空色心経』備忘録(第2期)

The view from Mt. Haigamine

祝 連載再開

摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)

こうの史代(2023-2024)『空色心経』 https://ameblo.jp/k234-2021/

『空色心経』は般若心経を考えていく漫画、ということですので、そもそも般若心経に何が書いてあるのかを含め、気づきました点を連載に沿って記していきたいと思います。


祝再開

‘舎利子是諸法空相’
観自在菩薩は(これ迄言及されたのも含め)あらゆる基本的要素に実体は無い、と舎利子に語っています。
実体が無いので ‘漂う’ 事もありません。


この見開きは釈迦が説いた ‘諸行無常’ を表している風ですが、般若心経ではそれ自体錯覚故、当然 ‘不生不滅’ なのだと釈迦の教えを否定しています。
ましてや、それがいつであるかという点など、初めから問題にさえなっていません…


‘眼’ ‘耳’ ‘鼻’ ‘舌’ ‘身’ ‘意’ は人の認識器官であわせて ‘六根’
‘身’ は触覚です。だからぬいぐるみ(だよね?)を抱き上げてその触り心地を感じているわけですね。
で、その釈迦の教えを般若心経では ‘無’ と否定しているわけです。


‘意’ は心で思い浮かべたりして認識することを指すのですが、これも他の五感と同列の認識器官と捉えて、あわせて ‘六根’ なのです。


比叡山で買ったキーホルダーがありますから、弁当食べたのは蒼君ということでしょうが、これだけ ‘無’ が繰り返されるとなれば、実は居ないのだったりして(←そんなB級的展開なわけないやん!)


’是故空中無色’ は

空中に噴霧した除菌スプレーに色が無くて透明…
とかではなく

「それゆえ実体がない状態(空)に於いては物質(色)はない(虚像)」
という意味です。

ところで あい さんは便器に向かって何してたのでしょう…?


’是故空中無色’ の最初2文字は
日本では ‘ゼーコー’ と読むようですが
中国語ではshìgùと読むようです。

空中無色な除菌スプレーの ‘しゆこしゆこ’ という音はこの2つの合わせ技かも!?


六根のそれぞれの認識対象が ‘色’ ‘声’ ‘香’ ‘味’ ‘触’ ‘法’ で6つで六境。六根と合わせて十二処。釈迦がこの世の基本要素で実在するとしたこれらも ‘無’ だと、般若心経は述べています。


・六境の一つ目の ‘色’ は六根の一つ目の ‘眼’ が認識する対象の所謂「色や形」。
・色即是空の ‘色’ はそれだけでなく六根のうち ‘意’ 以外全てと六境の ‘法’ 以外全て。

なので、同じ字ですが違う内容です。
紛らわしいね。


‘眼識’ ‘耳識’ ‘鼻識’ ‘舌識’ ‘身識’ ‘意識’ は、六根のうち ‘意’ の作用で生じた認識そのものを別にして並べたものです(六識。十二処と合わせて十八界)。描かれているような、五根の商品棚に直接おさまるものではありません。


‘無眼界乃至無意識界’ は六識も無い、と釈迦の教えを否定しているわけですが、’眼識’ ~ ‘意識’ 的な書き方になっています。並べるのが面倒になったのでしょうか…


‘無明’ から始まり ‘老死’ に至るこれは、釈迦が示した人生の苦しみの連鎖「十二支縁起」。
これを滅せよと教える釈迦の眼前で ‘そもそもそんなものは無い’ と観自在菩薩に言わせているのが般若心経なのです。


‘十二支縁起’ のキモは前の要素が次の要素を引き起こす、という所なのです。
例えば、あいさんの ‘愛’(loveではないよ)は前段の ‘受’(その前段の ‘触’ で起動する心の働き)を渇望する事、といった具合です。


何がキモかというと…
それも因果則によっていて、前段が後段を引き起こすので、最初の ‘無明’(無知のこと)を滅する事で順に全ての苦しみが消える、というのが釈迦の教えだから。
で、それも無効、と釈迦の教えを否定するのが般若心経。


釈迦が説いた4つの真理‘四諦’
‘苦諦’ = 人生は苦しみに満ちている
‘集諦’ = その原因は煩悩
‘滅諦’ = それを滅すれば苦も消滅
‘道諦’ = それを実現する為の八正道

なのに般若心経では、それも無いのだと、観自在菩薩に言わせているのです…


ええっ! まさかの ナノチップ陰謀論 突入ですか!

こうの史代 先生、攻めてるなぁ…


「どちらの世界も少し険悪に」というコメントがありますけれど、釈迦の教えの基本の基である十二支縁起を

「そんなもんねーよ」と

釈迦の目の前で
一番弟子の舎利子に
語っている状況なのでして。

全然「少し」じゃないのですよ…


「でも心配は いらない / 四つのことは 明らかだから」と釈迦が言う‘四諦’
これも「無い」のだと観自在菩薩が言っている般若心経の箇所が、欄外の‘無苦集滅道’ なのです。
この対立の連続、心配するなと言われても…


手拭いに ‘無’ が並んで見えます。この辺りは
「釈迦の言う十二支縁起は無いのだから、元々無いものは(釈迦が言うように)消すこともできないよね」という話をしているところでして。
つまり釈迦の教えをその一番弟子に向かって完全否定…


観自在菩薩が「無い」と思っとけ、と言いたいのは、一つ一つの因果や因縁というよりも、それを齎す法則である因果則です。つまり釈迦がその教えの前提とした ‘ルール’ は無いのだ、と言いたいのです。それは、その ‘ルール’ がある限り、→

→釈迦の教え通り出家して善い事も悪い事も行わず全ての煩悩を消さない限り輪廻(=苦しみ)を断ち切れないのですが、普通の人に出家なんて出来ない(つまり救われない)から ‘ルール’ を変えようと。

皆を救いたいのです、観自在菩薩は


「あらゆる事象は偶然ではない、必然だ」という考えは「その必然を操る誰かが居る筈だ」という所謂「陰謀論」の類と親和性が高いのです。28でご紹介した蒼君が取り憑かれている ナノチップ陰謀論 みたいなのもそうですが。
大丈夫かね こうの史代 先生…


『空色心経』続きはどうなるのでしょうか…


第1期はこちら


『この世界の片隅に』の色々も書かせて頂いております。宜しければご覧下さい。


  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次