息の合う二人

左上のコマですずが鉈を持ってくる

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p84)

水原哲が迫ってきたときに、本当に嫌ならばこの鉈を構えることもできたが、すずはそうはしない。

3段目の左右のコマと右下のコマで「ほいじゃ 行火の炭を 貰うて」「水で 溶いてと」「ああ 書ける 書ける」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p84)

すずと水原哲がとても息が合っている事が表現されている。何のためか? サンや径子からどれだけ笑いものにされていようとも、すずが決して、周りの状況が理解できない、あわせることができない人間ではない事を示唆している。

すずの選択

左下のコマ「うちは今 あの人にハラが 立って仕方がない…………!」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p86)

周作に対する強い感情が、りんどう柄の茶碗を意識する事で、かきたてられている。

リンの代用品の代用品ではないかという疑い。素の自分が「よそ者」として扱われ追い出され、受け入れられない事。

このまま水原哲の求めに応じてしまうことは、自分が「よそ者」であることを認めることになるので、(元々周作の要請で嫁に来た筈なのに)そのように仕向けた周作が許せない。

上段右のコマ「ほんまに ごめん!」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p87)

何について謝っているのか?

自分を連れ戻しに(実際に出来るかどうかは別だが)来てくれた水原哲に対し、それに応じられない理由が、周作に対する怒りであって、周作の身勝手な対応に振り回されたくないから水原哲を受け入れられないだけだという事だけは水原哲に伝えたいのに、水原哲を怒る癖が邪魔をして、自分の想いを顔にも口にも出せないから。

上段左上のコマ「………… ……うん」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p87)

水原哲の「あの人が 好きなん じゃの」という問いに対する答えであるが、表情と長いリーダーが表すように躊躇いがある。本当は、あくまで周作の身勝手な振る舞いへの対応の為、水原哲の想いを受け入れられないという事であって、周作が好きだからということではないからである。なのに当たり障りのない回答で取り繕ってしまったのである(とは言え、水原哲が納得できるように伝えることは出来そうもないが)。

上段右上のコマの下の横長のコマ

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p89)

空が白んでくる事を表しているが、この時期の呉の日の出は7am過ぎ、日の入は5pm過ぎなので、空が白んでくる時間帯を約1.5時間としても6am近くと推定できる。晴美はおそらく常識的には遅くとも9pmには寝かしつけているはずで、その前に水原哲は納屋に追いやられているので、納屋での滞在時間は約9時間。すずの入浴時間を差し引いても、気心の知れた若い男女が長い夜を8時間近く。しかも朝の家事も放り出して。

「当たり前」とは? 「普通で…まとも」とは何か?

下段左下のコマ「うん 死んだ兄ちゃんと 同い年じゃ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p87)

周作が同じ4つ年上であることが、水原哲の死んだ兄を思い出させ、それが、水原哲自身に何をもたらしたか次のページで語るきっかけとなっている。

「すずがここで家を守るんも わしが青葉で国を守るんも 同じだけ当たり前の営みじゃ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p88)

この台詞の前に7回「当たり前」を繰り返す水原哲。「当たり前」とは、通常の意味であれば、世間並みであり、そうあるべきである事。しかし、ここで水原哲が言う「当たり前」は、その前に列挙されている事柄からいずれも通常の意味というよりは、「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」といった意味合いと考えられる。7回のうちの「人間の」と限定している1回を除いて。だからこの8回目の「当たり前」もその意味であるとすれば、「すずが家を守るんも / 水原哲が国を守るんも」「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」であると水原哲は言っている。

「そう思うてずうっと この世界で普通で…まともで居ってくれ / わしが死んでも 一緒くたに英霊にして 拝まんでくれ / 笑うてわしを 思い出してくれ / それが出来ん ようなら 忘れてくれ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p88)

海軍志願兵も北條家への嫁入りも、全く自由な選択をしたのでは決してなく、外的要因によって「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」ではある。ではあるが、外的要因によるものであり主体的自発的ではないのだと思うと、とてもやりきれない。なので人は、それを自らのそれまでの行動原則や価値観の中に、整合性をつけて位置づけようとする。つまり「一貫性」を保とうとする。「普通で…まともで居」るというのは、その自分の「一貫性」を保つ、ということ。客観的に厳しい状況でも自分の「一貫性」さえ保てれば、ある程度までは耐えられるが、p88)「ほいでも ヘマもないのに 叩かれたり / 手柄もないのに ヘイコラ されたりは」では一貫性が保てず、そういう状況には人は耐えられない(水原哲は耐えられなくなりつつあったのかもしれない)。

また、その「一貫性」は(当然のことながら)あくまでも自分自身で整理した個別の「一貫性」でなければならない(そうでなければ納得できるはずがない)。だから「当たり前の営み」の結果の死も一人一人個別の「一貫性」の果ての「死」なのであって、(英霊246万6千余柱などと)十把一絡げにすべき性質のものではない。それを理解せずに十把一絡げに「英霊」とするのは当該個別の「一貫性」を踏み躙るものだから、そんなことをするくらいなら忘れて貰った方がまだマシ、ということ。

「当たり前の営み」を守り切れない予感が…

ページ全体に強烈なパースがかかっている

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p88)

超広角レンズによる描写で、水原哲の右手の羽根から、りんどう柄の茶碗まで一気に描写している。りんどう柄の茶碗も、水原哲の羽根も、後に打ち砕かれる。水原哲の「当たり前」台詞と同一画面に描かれているのは、水原哲の「当たり前の営み」が打ち砕かれることを示唆しているのだろうか。

伝えることも、書くことも描くことも出来なかった想い

中段左のコマで、水原哲の右手を、両手で包み込むすず

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p89)

伝えられない想いがあることを表している。

手帳を渡す右手だけでなく、左手でも水原哲に触れたのは、その後のすずの右手の行く末を案じた「右手」の思い遣りかもしれない。

下段右のコマ「……………… ……………て」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p89)

長いリーダー。結局すずは水原を「哲さん」と名前で呼ぶことはできなかった。

「羽有難う 立派に成つて呉れて有難う 死なずに来て呉れて嬉しかつた」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p90)

対照的に「鬼いちゃん」が死んで戻ってくる第24回の伏線になっている。そして次のコマで口にも顔にも出せなかったと言っているすずの本心でもある。口にも顔にも出せなかったのだから、この絵も文章も実際は(水原哲の手帳に)描いていない(正確に言えば、p89)の左下のコマの、嘴のあたりの細い線の部分だけはすずが実際に描いたもので、それ以外の部分や文字は描いていない)。

「…………難しいわ / 口に出すんも 顔に 出すんも」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p90)

出したかった感情は何か? 出せなかった理由が「小まい頃から あんたを見りゃ 怒る癖がついとんじゃもん」である事から、これは水原哲への想いである。


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  • 更新履歴
    • 2022/03/09 – v1.0

1 thought on “第22回(19年12月)

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