第21回(19年12月)

The view from Mt. Haigamine

対照的に見える二人

中段下部右のコマで、水原哲がすずを抱える描写

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p75)

軍隊勤務がこなせる体格の良さを表しており、対照的に、すずを抱える描写がない周作が、体格に恵まれていない事を表している。

  • 他にも大きな要因がある(次項で説明する通り、その要因はp77)で描かれる)が、体格でも兵隊検査に引っかかったのかもしれない。

「ここじゃ ただの ボンヤリ でしょう」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p77)

対する周作の仕草は、すずが「ボンヤリ」というのを否定しているようにも見えるが、これは水原哲がすすめるたばこを周作が断っているのだ。

  • 禁煙が一般的になった現代であればなんの変哲もない場面に思えるが、当時たばこは高価な嗜好品で、一般的な男性であれば、勧められて断るようなものではなかった筈。
  • つまりこれは、周作が何らかの呼吸器系の問題を抱えている事を示唆しているのだ(軍隊勤務でないのはそれが理由であろう)。

「ゴリラの水兵さん になるん」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p82)

水原哲の(見慣れた周作と比較しての)体格の良さを駄目押ししている。ちなみにゴリラが日本に初めて輸入されたのは1954年なので、晴美が実物を見たことはない筈。絵本か何かで見たのだろう(どちらかと言うと軍艦の図鑑が好みのようだが…)。

水原哲の訪問意図は尋常ではなかった

「昔と感じが 違うけえ…」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p76)

短いながらもちょうど1年前の「第1回(18年12月)」で再会しているのだから、見た目が違うとかではない。

次回の「第22回(19年12月)」で触れる通り、水原哲の訪問意図は尋常ではなかったのである。その事にすずは雰囲気から感づいたのだ。

その訪問意図は「第25回(20年2月)」で(別の形で実行されたことが)明かされる。聡いすずがそれに薄々気づいた(雪の上に最初に描こうとしたのはそれ)という形で。

「すずん家」ではない

「今晩はすずん家へ 世話んなるかの」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p76)

すずの家ではなく北條家である。すずは「第18回(19年10月)」p58)「北條のヨメさん」でしかない。

すずは連れ去られ「よそ者」が現れる

「まっ 遠慮のう 言うて 下さりゃ 連れ帰ったり ますわい!」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p77)
  • 親でもないのに踏み込み過ぎた発言。
    • (※否、親でもそんな事は言わないだろう。「第2回(19年2月)」上巻p66)で祝言に向かう道すがら、すずの両親は「ほんまに フツツカじゃ 大丈夫かいね」と謙遜ではなくかなり本気ですずが至らない嫁 / 無償の労働力である事を強調してはいたが…)
  • 「はははは」と独りから笑い。

青葉の乗員である水原哲が連れ去ることなどできる筈がない。

  • しかしながら、すずは水原哲の振る舞いに呼応して、見慣れない振る舞いをする「よそ者」に変わり、周作が見慣れたすずは何処かへ連れ去られてしまった
  • それに気づいた周作は、北條家の家長として、家を守るために
    • 「よそ者」である水原哲と
    • 「よそ者」に変わってしまったすずを
  • 家から追い出す決断をする。

なお、晴美だけは水原哲の言葉を形どおり受け取り、すずと一緒に青葉に乗せてもらえるかも、くらいに受け取っているのが表情の変化から見てとれる。

「もう浦野じゃ なかろうが」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p78)

と言いながら視線を逸らす水原哲。とはいえ、もう「周作達の見慣れた北條すず」でもなくなっている(あるいは、裏の(浦野)すずではなくなっている)すず。

「すずさん ランプは どこかいの」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p79)

この時点で周作は、水原哲を納屋に追いやる事を決断済み。p80)「同期もだいぶ 靖国へ行って しもうて」という水原哲の言葉を聞いてからではない。

「父の居らん間は わしが家長じゃ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p80)

家長としての務めは、家を守ること。

  • 家を守るためには、よそ者を追い出さなければならない。
  • この場面における「よそ者」は、水原哲と、見慣れない振る舞いをするすず。

だから周作は、p81)右上のコマで「申し訳ないが わしはあんたを ここへ泊める わけにはいかん」と水原哲だけでなく、p82)中段のコマで玄関に鍵を掛けて、すずも家から追い出した。

決してp81)「ほいで 折角じゃし ゆっくり 話でも したらええ」と言葉どおりに思ったからではない(嫉妬からの子供じみた行動という側面はあるかもしれないが)。

「もう会えんかも 知れんけえのう」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p82)
  • (戦死によって)水原哲とすずがもう会えないかもしれないという意味と
  • (すずが水原哲について行って)周作とすずが会えなくなるかもしれないという意味の

二重の意味のつもりで周作が言った言葉。

周作としては、上記の通り家長として、それなりに考えたつもりの台詞だったのだろう。しかし肝心の、水原哲の訪問意図が尋常ではない事には全く気付いていない…(気付いていたら「絶対に」二人きりにはしないだろう)

結果的にこの「もう会えんかも 知れんけえのう」は、さらにもう一つ周作の気づかなかった意味

  • (上記のとおり次回の「第22回(19年12月)」で触れる「尋常ではない水原哲の訪問意図」が現実化したらそうなるという…)

を加えた、三重の意味を帯びる事になったわけである。

左上のコマで、表札が半分(條)だけ見えている

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p82)

條 = 錠。中段のコマで(周作の)手が捻っているのは玄関のねじ込み式の錠前。

  • そういえば「第16回(19年9月)」p37)で、リンへの自己紹介の時も、すずは「條」の文字を錠前に喩えていた。

すずが表札を背にして、玄関から締め出される事で、周作の家長としての務めが完遂された。

すずは何を思うのか

左上のコマで、風呂場の扉から外を窺うのは、水原哲の視線を気に(期待)して

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p81)

また、風呂上がりの描写は夜の営みの先行描写であることが多く、読者に何かを予感させる。

  • すずも何かを予感(期待)していたのだろうか…
    • 第25回(20年2月)」の「しかも、それだけではなかったのだ」以降で説明する「ある事情」を、この時ばかりは忘れることができていたのだとすれば、それは、すずにとって束の間の幸せだったのかもしれない…
    • ただそれも、次回「第22回(19年12月)」p86)でりんどう柄の茶碗が彼女の視界に入ることで、打ち砕かれるわけだが。

2段目左と3段目左のコマで、それぞれ「はあ…」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p81)

2段目左のそれは、さらに長いリーダーが続くが、これは家長に対する軽い異議申し立て。

他方で3段目左のそれは、

  • 素の自分を見せてしまったことへの指摘
  • 或いは、上記の束の間の幸せを感じていること

に対する軽い照れ隠し。

下段右のコマで、天秤棒で反撃しようとしているすず

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p75)

そう、すずは反撃しようと思えばできるのだ。


目次に戻る

次へ進む


  • 更新履歴
    • 2022/03/09 – v1.0
    • 2022/11/04 – v1.1(「様子が普通でない水原哲」を「水原哲の訪問意図は尋常ではなかった」に改訂し、訪問意図が明かされる「第25回(20年2月)」へのリンクを追加)
    • 2022/12/12 – v1.2(「皆さんには すずが世話ん なりよります」を削除し、全体的に読みやすさを改善し、「もう会えんかも 知れんけえのう」に三重の意味が込められていることを追記)
    • 2023/03/13 – v1.2.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/03/29 – v1.2.2(変換ミスの修正)
    • 2023/11/13 – v1.3(「左上のコマで、風呂場の扉から外を窺うのは、水原哲の視線を気に(期待)して」に、すずも何かを予感(期待)し、それが次回で打ち砕かれることを追記)
    • 2024/02/20 – v1.4(水原哲の視線を気にするすずと「第25回(20年2月)」で説明する事情との関係を追記)
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次