第15回(19年9月)

The view from Mt. Haigamine

約束を守ろうと

下段のコマですずが何かを帳面に書き留めている

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p27)

メモしているのはあいすくりいむかもしれない。でも結局「よう分からんくて!」だったのは、文書で作り方が書いてあるだけだったからかもしれない。見ている雑誌風のものの下に紐付きの板のようなものがあるが、回覧板だろうか?

家父長制下、自己中心的であることに気づかない周作(あるいは男達)

寝るのは同じ頃でも起きるのはすずが先

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p28)

しかもすずは夜明け前、周作は夜が明けてから。

「うちへは 姉ちゃんも 母ちゃんも 居るんじゃし」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p31)

家事労働の担い手として、具合の悪い母親まで含めながら、自分や父親は当然のように含めない。嫁であるすずとしては、気遣いはありがたいものの、根本的なところで立場が改善されるわけでもなく(すずが不在ならその分の家事労働は径子かサンが余計に担うわけだし)、加えて「映画でも観て 食堂で雑炊でも よばれ」ればすずが喜ぶだろうと何の相談もなく(夫とはいえ他人である)周作に決めつけられ、その勝手ぶりにやや複雑な気分。

「過ぎた事 選ばんかった道 / みな 覚めた夢と変わりやせんな / すずさん / あんたを選んだんは わしにとって多分 最良の現実じゃ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p34)

周作にとっては最良かもしれないが、すずにとって最良かどうかは判らないのに。すずを持ち上げているようでいて自己中心的。もっと広げてみれば、周作を含む男達が選んだ戦争という現実が最良だと男達は思っているのか、とも考えられる(勿論、男性だから自己中心的という短絡的な話なのではなくて、家父長制の下、そういう傾向がより育まれる、ということだ)。

そんな周作にもいいところがある…のか?

ノートの裏表紙が切り取られている

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p28)

勿論、切り取られた紙片はリンの身元票に。でも実は、それは身元票として書かれたのではないのだ…

「あの…… おつとめは?」「終わりじゃ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p31)

半ドンならこの日は土曜日。映画を観るには十分な時間がある、ということ。

そして「土曜日が半ドン」であることを(※当時「半ドン」が文字通り実施されていたかはわからないが、そうは言ってもいつもの平日よりは早く仕事を終えていたとすれば)、読者は「第30回(20年5月)」でもう一度思い起こす必要があるのだ。

「急ぎでもないのに ワザと持って 来さしたんじゃ!」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p31)

21年1月、周作はわざわざすずを広島に呼び出している(一人でも呉まで帰れるのに)。そうでもしないと(嫁という立場の)すずは広島に帰ることができなかったから。周作はそういう気遣い(自己中心的ではあるが)をする人間であるということを予め描いている。

「どこで間違ったのか」

「夢から覚める とでも思うん じゃろか / 今 覚めたら 面白うない」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p33)

ここで言う「夢」というのはどの範囲を指すのだろうか?

里帰りで「呉へお嫁に 行った夢 見とったわ !!」と言っているので呉に嫁いだ事全体を指すように思わせられるが、「周作さんに 親切にして貰うて / お友達も 出来て」というすずの発言を踏まえれば、ここで、覚めて欲しくないな、とすずが考えた範囲は「リンと友達になって周作が息抜きを気遣ってくれる」部分だろうか。

右手を無くして意識がはっきりしていないかのような時に「どこで間違ったのか」とすずは自問するが、この小春橋に至る一連の場面はその分岐点の一つ(ここですずが周作との暮らしに傾かなければ、後述する二つの「死」は無かったかも、とすずはその時考えた)なのだろう。

p32)ですずが水原哲に会うのを躊躇う描写も、「第7回(19年4月)」の水原哲を想うあまり転落していた頃から、すずが分岐点を越えて(選んで)変わりつつある事を描いている。

「今のうちが ほんまのうちなら ええ思うんです」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p33)

加えて後述の通り、実はすずは「ほんまのうち」ではないのだ(周作にとって、だが)。間違ったのはすずだけではない。周作もまた「間違った」。

すずは職業婦人

「住む町も仕事も 苗字も変わって」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p33)

住む町と苗字だけではなく、すずは仕事もかわっている。「かわっている」というからには、結婚してからの家事労働(仕事)とは違う仕事をしていたのだろう。つまりすずは職業婦人であった。

そう言えば「第1回(18年12月)」上巻p55)「うん 上手う なったねえ」とイトおばあちゃんに褒められているが、という事は、イトは普段はすずの手際を見ていないということだ。すずは平日は働きに出ていて、日曜日にたまに森田家に手伝いに来ているのだろう。森田家の近所の人も、上巻p54)「ほう 江波から 手伝いに 来とんか」と言っているので、普段から(それを仕事と呼ぶほどには)手伝っているわけではないようだし。

加えて、「第6回(19年3月)」上巻p98)欄外に昭和18年末頃から女子挺身隊が結成とあるので、「第2回 / 第3回(19年2月)」で19年2月20日に結婚するまで無職ならすずもすみと共に挺身隊に(短い期間でも)動員されたのではないかと思われるが、実際には「すみちゃん 挺身隊は どんな? / 危ない 仕事なん? 大変なね」とすみを気遣っていて、すずは全く挺身隊の経験が無いようなので、やはり何らかの職業に就いていたのだろう。

すずはどういう職業に就いていたのか

さてそうすると、すずはどういう職業に就いていたのか。

『鬼イチャン』作/浦野すず」が、結婚話の持ち上がる「第1回(18年12月)」の前、「波のうさぎ(13年2月)」の前後に配されている。しかも「鬼イチヤン冒険記」とは違い「ウラノスゞ / 浦野すず」のクレジット入りである。

もしかすると、新聞社か雑誌社のようなメディア関係の会社で、自分の名前で漫画作品を発表する機会もある、そういう仕事に就いていたのかもしれない。「波のうさぎ」に続く新作を求められた水原哲が(当然描けないので)すずの作品だと白状したとすれば、それがきっかけですずに声がかかったのだろうか。

日本初の女性プロ漫画家として知られる長谷川町子がデビューしたのは15歳。「少女倶楽部」1935(昭和10)年10月号。「大潮の頃(10年8月)」のすぐ後だ。すずが周作に○間○い(※「第44回 人待ちの街(21年1月)」で説明予定)されることがなければ、すずもきっと国民的漫画家になっていたことだろう。果たしてこれは「最良の現実」だったのか。

その長谷川町子のデビュー作は「狸の面」。そういえば「第19回(19年11月)」p61)ですずは周作に「葉っぱが 乗っとるで 小狸さん」と呼ばれている。

また「第12回(19年7月)」ですずがスケッチをしていて憲兵に捕まる話は、「サザエさんうちあけ話」にある長谷川町子自身の体験に基づくもの。また「サザエさんうちあけ話」には長谷川町子が米兵から(チューインガムと)チョコレートを貰う(小柄なので子供と間違えられたと推測)出来事も描かれている。

北條家がすずを見つけられたのは

第18回(19年10月)」p54)〜p55)の回想(?)場面で周作の服装が冬服→夏服→長袖で帳面に涙、と変化していることから、リンとの別れが18年の秋だとすると、そこから僅か2〜3ヶ月で人一人見つけ出すのは、普通であればかなり困難な作業。

しかし「浦野すず」という名前が(広島限定ででも)メディアに露出していたならば、そのメディアに気付きさえすれば、それを頼りに調べる事が出来る。

  • だから、周作をはじめとする北條家の皆は、すずが「絵を描くんが好きな人」だと初めから知っていた。

それでも「第1回(18年12月)」上巻p62)「こちらのお宅を 探すんも大事 でしたわ」には違いないが。


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  • 更新履歴
    • 2022/03/04 – v1.0
    • 2022/03/05 – v1.0.1(男性だから自己中心的という短絡的な話ではない旨付記)
    • 2022/06/01 – v1.1(「土曜日が半ドン」を後程思い出す必要があることを追記。「夢」の範囲についてすずの台詞に基づき再整理。)
    • 2023/02/08 – v1.2(「すずは職業婦人」を追記)
    • 2023/03/13 – v1.2.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/03/28 – v1.2.2(長谷川町子が米兵からチョコレートを貰う出来事が「サザエさんうちあけ話」にある旨追記)
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