出征の予感

この時点で既に「森田の叔父さん」は不在

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p73)

森田家宛の絵葉書で、さりげなく、出征した事が示されている。もちろん「鬼いちゃん」も。但しこの時点では存命と、少なくともすずには認識されている。

そして、(該当する年齢の男性は皆出征しているのだから、周作も出征するのではないかと予感させることが)次の第4回のオチの伏線でもある。

ほくろが決め手…なのだろうか?

うちらどっかで 会いましたか?

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p75)

水原哲からの疑問をそのまま口にするすず。

ほいで昔も ここへほくろが あった

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p76)

下巻p138)「初めて会うたんは ここじゃ」「わしは すずさんは いつでも すぐわかる ここへほくろが あるけえ すぐわかるで」に繋がる伏線。だが実はそれは、ほくろが「その人であることを示す」という一般的な意味合いではないのだった。

新婚初日にも小学校時代からの筆入れ

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p73)

絵柄は梅に鶯…ではなくて、梅にメジロ。「梅に鶯」は梅と鶯の「鳴き声」の取り合わせのことで、メジロはその時期目に付きやすいことから、鶯と混同されがち。つまりすずも誰かと混同されている、ということを示しているのだ。

「同じく姉上。 周作さんに ソツクリなのです。」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p73)

そして下巻p39)「ほんまに周作さんに 似とりんさる」という重要な台詞の下準備が早くもなされている。

祝言の日取り

「今回は急いて 済まんかった」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p76)

第4回(2月21日、月曜日)で隣組の面々と初顔合わせするすず。当時の隣組はいわばライフラインであるから「嫁=無償の労働力」としてやってきたすずが何日も未接触でいるとは考え難く、また他の祝言参加者も都合がつけやすかったかもしれないと考えれば、祝言を挙げたのは前日の日曜日(2月20日)だったのだろう。

サンが「最近足を痛め」たのが「急い」た理由だとすると、結婚の申し入れに行った第1回は青葉が呉を出撃した12月15日より前の筈だから、急いだ割には2ヶ月以上も経過している。しかもそれだけ時間があったにもかかわらず、すずは周作と祝言前に会わせて貰えなかったのみならず、恐らく写真も見せられていない。小林の伯母さんもすずの顔をこの日初めて見ている風(p66)「こちらが すずさん ですか」)なので、互いに写真のやり取りをしなかったのだろう。まるで「この世界の片隅に」の世界には写真なんて存在しないかのようだ。

あるいは北條家側が、すずが予め周作の写真をじっくり見ると「やっぱりこんな人知らない」と縁談を断ってくるかもしれないと危惧して、あえてやり取りをしなかった、ということだろうか。

ところで祝言の日が2月20日だったとして、この日は所謂「大安」の日ではない。

そもそも浄土真宗では親鸞が「日の吉凶を選ぶことはよくない」と和讃で説いたこともあり、仏教においては因果関係によって物事が決まるのであり、六曜が直接原因として物事を左右することはないとしており、その点は違和感がない。

その上、後程第25回(20年2月)で触れるある童謡詩人の結婚式はすずと同じ2月、大正15年2月17日(水曜日)「大安」だったのだ。「何事においても吉」の筈の。


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  • 更新履歴
    • 2022/02/21 – v1.0
    • 2022/08/10 – v1.1(「祝言の日取り」を追記)

1 thought on “第3回(19年2月)

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