千鶴子
「もう手え 痛うないん?」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p129)
この時千鶴子は12歳。千羽鶴を折り続けた(原爆の子の像のモデルでもある)佐々木禎子が亡くなったのも12歳。
変わらないもの、変わってしまったもの
着物は変わらない
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p129)
すずの上着は嫁入りの時の上着と同じ、すみの寝間着は第6回のすずの帰省時と同じ
「治るよ / 治らんと おかしいよ」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p130)
天井にあった筈の電灯(左から2つ目の桟の奥から3つ目と4つ目の天井板の境目辺り)がない。焼夷弾対策で天井板を外した時に撤去したのだろうか。
「お父ちゃんは 十月に倒れてすぐ 死んでしもうた」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p131)
「夕凪の街 桜の国」の「霞姉ちゃん」が倒れたのはあの日から2ヶ月後、つまり10月。
中段のコマで、すみの左腕に内出血がみられる
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p131)
放射線曝露による特徴的な症状の一つ。
上段のコマは、上巻p102)のコマと同じ構図、同じ見開き上の位置で、描かれている建物とすずの姿が違う
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p136)
すずの羽織は同じ。
上巻はコマが閉じているが、下巻は断ち切りという違いもある。
上段のコマは、上巻p104)のコマと同じ構図、同じ見開き上の位置で、描かれている(無くなっている)建物とすずの姿が違う
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p140)
上巻はコマが閉じているが、下巻は断ち切りという違いもある。
繰り返される構図、繰り返される疑問点
「みな無事 じゃったんじゃね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p129)
すずは草津の皆の消息を知らなかった。すみが「草津」から葉書を送った筈なのに。そしてきっとすずは「草津」からの葉書が読めないので内容を確認する葉書をすみに送ったに違いないのに。
上段のコマの、障子のように見えるものは海苔干し台。「波のうさぎ」や「第1回」冒頭と似た構図が繰り返されている。
「知らせるひまが 無うてごめんね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p131)
ひまがなかったのではない。知らせる気になれなかったのだ。そうだとすると、20年9月にすずに届いた葉書もすみが出したのではないのだろう。
繰り返される期待と落胆
左下の、江波の浦野家に向かうコマ
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p133)
上巻p61)左上の、水原と別れて浦野家に向かうコマと同じ構図だが、左手で描かれている。2年前のように行く先の浦野家にキセノがいればと期待して。
畑にトタン板風のものを雨よけのようにしてあるのは、誰かがそこで雨露をしのいでいるのかもしれない。三兄妹に浦野家を譲っているということだろうか。
コマの下の方の家の屋根の上に、上巻p61)にはなかった丸い物の一部が見えているが、屋根が飛ばないための石の重しだろうか?
「スイマセン」「スイマセン」「スイマセン」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p134)
すずの視点ではどう見えていたのか。しかし三兄妹(浦野家の三兄妹と同じ構成)の視点で見れば、もしかすると自分たちを探しに来た誰かだという期待が一瞬あったのだろう。(誰も自分達を探しておらず、すずも三兄妹を助けなかったことで)その期待が落胆に変わったことが、この「スイマセン」という感情のこもらないカタカナ書きに表されている。
江波の浦野家にいた三兄妹
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p134)
三兄妹の構成が浦野家の三兄妹と同じ構成である事に加えて、道ばたの死体に手を合わせない、兄(本当はリン)が死んでよかったと思っている自分を「歪んどる」と認識した筈のすずは、そう反省するなら手をさしのべても(持ち合わせの江波巻きをわけるとかしても)よさそうなものなのに、実際には三兄妹を放置した。しかもその直後には別の孤児を拾っている。両者の違いは何か。(「冬の記憶(9年1月)」の「『家族』とは何か」に続く)
繰り返される「ひとまちがい」
「あんた 確か 太田さん……!」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p136)
太田さんは「夕凪の街 桜の国」の太田京花の母親だろうか。
「初めて会うたんは ここじゃ」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p138)
p138)右上のコマで、原爆で傾いた相生橋の欄干は橋の南側にあった。なので、このコマは相生橋の南側からの構図ということになる。上巻p15)と同じ構図、同じ舟の位置、櫓の向きまで同じだが、舟の帆は継ぎだらけに変わっている。
他方、南側にあった上巻p15)の頃の歩行者用の橋は(原爆投下以前に)撤去されている。ので、上巻p15)ですずと周作が別れた(と周作が勝手に思い込んでいる)橋はその撤去された南側の歩行者用の橋で、p138)の橋ではない(上巻p15)で周作のいる橋の奥に薄く描かれている橋がp138)の橋)。つまり(その思い込みにもまもなく気づくが)そもそも「ここじゃ」という説明からして間違っていた。
「変わり続けて 行くんじゃろうが / わしは すずさんは いつでも すぐわかる / ここへほくろが あるけえ すぐわかるで」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p138)
と言う周作は、上巻p64)で18歳のすずを見ても気づかなかった。他方すずは「初めて会うたんは ここじゃ」と言われ、そんな記憶がない事から自分が「ひとまちがい」されたのだと改めて確信した。
「周作さん / ありがとう / この世界の片隅に / うちを見つけて くれて ありがとう 周作さん」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p140)
すずとしては、「ひとまちがい」だと確信はしたが、だからさようならというわけにもいかないので「見つけてくれてありがとう」とでも言うしかない(昔出会った少女を見つけたと思っている周作が聞いても違和感がなく、かつ人間違いの別人とはいえ、見つけたということ自体は間違いではない)。表情も微妙なところ。というか何となくがっかりしているようにも。
そしてこの回の副題「人待ちの街」は「ひとまちがい(人待ち街)」。「街」を「がい」と読むのがポイント。なのでやたらと皆が人間違いをするのだ。街の人達だけではなく周作もすずも。
凝った演出をした周作だったが…
「同じような 黒い服 じゃった けえ…」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p140)
p23)で「三月も会わん かったら周作さんの顔を 忘れてしまう」という予告をした通り(この日と見送った日を除けば正確に3ヶ月(93日)!)周作を忘れ(て間違え)るすず。「同じような黒い服」でも間違える。ましてやほくろだけでは当然間違える。
すずはばけもんを知らない(「冬の記憶」と同じように黒い服の裾を掴んでも思い出さないのだから、知らないのだ)が、周作は知っている。しかし単に少年の頃の人さらいが現れたというだけにしては、周作の反応が尋常でない。
すずとデートする為に「(帳面を)急ぎでもないのに ワザと持って 来さした」周作である。3ヶ月ぶりの再会にあわせて、すずに思い出して貰おうと、周作は(直接呉に戻れば良いものを)敢えて約束の場所を夕方の相生橋(※「冬の記憶」の舞台は夕方の相生橋)に設定し、更にばけもんを手配した(雇った)のかもしれない(勿論すずの呉〜広島の切符か切符代も。そうすればすずがすみを見舞うことも出来ると気遣って)。
が、(想定した以上にバッチリ再現(?)されたのに)すずが全く思い出さない(すずは知らないのだから当たり前だが)様子を目の当たりにして、周作も(「あっ あんた」と自分もされたように)自分が「ひとまちがい」をしたと漸く気づいて焦っているのだろう。冴えんねえ。
これもまた「知らんでええことか どうかは 知ってしまうまで 判らん」こと
- 更新履歴
- 2022/04/23 – v1.0
- 2022/04/24 – v1.0.1(「冬の記憶(9年1月)」へのリンクを追加)
- 2022/06/11 – v1.1(「江波の浦野家にいた三兄妹」を追記)
- 2022/12/23 – v1.1.1(用語の修正)
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