記憶の切れ端
包み紙だけ本物
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p113)
第41回に引き続き「記憶」を描き続ける右手。9月の手紙を読む刈谷も描かれている。板チョコは包み紙だけ本物(影が地面に落ちていて蟻も寄って来ている)で中身は右手の落書き。
電柱の変遷
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p116)
初めは洒落たスズラン灯。それに旭日旗が飾られるようになり、次いで、金属供出のためなのか仮設の支柱に灯だけになる。最後はp117)上段の左端、わらじの左隣のようにその仮設の支柱も折れてしまう。
「国防と産業大博覧会は昭和10年春開催。」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p116)
しだれ柳の葉が生い茂っていることから会期末の5月上旬かもしれない。右側の座敷童子は継ぎのあてられた肩だけ綺麗。つまりこの座敷童子は呉の朝日遊廓に連れて行かれる前に間違いなく草津に行っている。でもそれは昭和10年8月(大潮の頃)よりだいぶ前(恐らく昭和9年の夏の終わり)。
下段左の黒村家の両親はいずれも義足ではない
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p116)
晴美初登場の時に鞄をかけていたかはよく判らない。
その上の黒村家がおしゃれして外出の帰りは、どこに行った帰りなのだろうか? 国旗を持っているが。
どれだけ泣いたのか
「刈谷さん 回覧板です」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p114)
回覧板に返事をしない刈谷。手紙を受け取ったのは9月17日のすぐ後だと思われるが、11月まで泣き通しだったということか。
水原哲は生きていた
「○○ヘ ミナ元気 音戸ニテ待ツ 連絡乞フ」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p117)
宛名がちぎれたこの紙は誰が誰に宛てたメッセージなのか?
描き方を見ると、周りの回想シーン(p113)によれば「右手」が石で地面に描いたもの)と違い筆書きでなく、また隣の径子と同様の影も落ちているので、実際にこの日歩く径子の足許を舞った紙という設定と推定される。
水原哲は第43回で音戸の近くで大破着底した青葉の近くにいるが、水原哲が書いたとすると、一人なので「ミナ元気」というのは不自然。そうすると、逆に水原哲に宛てられたメッセージで、既に青葉を離れどこかに行っていた(ので本来なら、すずが水原哲を見かけるが声をかけないという劇的なシーンは実現しない)はずの水原哲が、このメッセージを読んで送り主に会いに音戸まで来たため、第43回でのすずとの再会(すずは声をかけないが)の実現につながったと考えられる。
残飯雑炊
「晴美も あがいなマネを したじゃろか……………」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p118)
軍国時代に信じたことのうち、信じ抜くに足る事、守り抜くべき事は無かったのか。そうだとすれば晴美の死は、久夫との別離はなんだったのか?
と思っていたら、目の前のすずの「あがいなマネ」に自分も与る事に。
「占領軍の 残飯雑炊 でした」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p118)
紙くず入りだが「正義」を抱いていた頃の楠公飯よりは確実にuma〜な筈。
「晴れそめの径」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p113)
残飯雑炊を食べて、径子が戦後漸く初めて晴れ晴れとした気持ちになれたので「晴れそめ(初め)の径」。
美味しく食べられること(この時は生ゴミだが…)が人の心に齎す影響は大きいのだ。いつだって。
- 更新履歴
- 2022/04/20 – v1.0
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