第43回 水鳥の青葉(20年12月)

The view from Mt. Haigamine

どれだけ泣いたのか

下段左のコマで、隣保館の傍で思わず立ち止まる刈谷

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p121)

息子と思われる「兵隊さん」が絶命していた場所。刈谷の右袖部分だけ着物の柄が違う。どれだけ泣いたのか。

「あの子の友達から 九月に貰うた手紙で ようやっとわかった」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p124)

九月の手紙とは、「第40回(20年9月)」p100)で枕崎台風の最中にすずが郵便配達の人から預かった刈谷宛の手紙だと思われる。この回は12月なので、刈谷がその手紙の衝撃を乗り越えて、すずに話せるようになるまで3ヶ月程要している。

「塩分がね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p128)

刈谷は9月17日のすぐ後手紙を読んで、前回「第42回 晴れそめの径(20年11月)」まで泣き通しだったのだろう。右袖がダメになるくらいに。

知多は生きていた

中段左のコマに、知多のバケツもある

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p121)

入市被爆した知多も存命であることがうかがえる。

交換された服、されなかった服

中段左のコマの風呂敷包み

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p121)

すずがその前のコマで抱えている縁取り模様のある白い風呂敷包みに比べ、大量の荷物を包んでいる濃い色の風呂敷包みは刈谷のもので、p123)ですずが驚くほどの量であることが判る。

砂糖1斤180エン

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p122)

第13回(19年8月)」中巻p18)ですずが予言した「砂糖が150円」「そんとな 国で 生きてける んかね!?」を超えているが、それでも生きていくすず達。上長ノ木町から音戸へ向かう途中の市場の様子が描かれていると思われる。

上段左から2つ目のコマで、刈谷が息子の普段着の洋服を交換している

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p123)

一般的に農家には必要度の低い晴着のような服が先に多く持ち込まれていたようだが、普段着の評価額(?)はどうだったのだろうか。

中段のコマで、すずが交換したのは嫁入りの時の晴れ着と径子のモガの服

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p123)

不要な筈の晴美の服は含まれていない(刈谷は息子の普段着の洋服を交換しているのに)。

そして、晴美の服が含まれていないのは、最終回の最後のコマにつながる伏線というだけではなく、この回に秘められた仕掛け、つまり

  • 「この後青葉の前を通り過ぎながら晴美のことが語られるように見せているけれども、実はそれは晴美ではなく別の人のことである」

という二重構造に気づいて貰う為でもあるのだ。

他人事、自分事

「あんたも目の前で 晴美さんを…」「さぞや無念 じゃったろうね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p125)

すずへの呼び掛けが「北條さん」から「あんた」に変わり、自身にも不幸が降りかかるまでは他人事だった隣家の悲しみを実感している刈谷。

  • (旦那も弟も戦死しているが、すずにとっての鬼いちゃん同様、実感がなかったのかもしれない)

戦争を同時代に体験していても、自身に直接的被害を受けるまでは「他人事」であることが伺える。それは

  • 刈谷や
  • 「死んだ人が転がっていても平気で通り過ぎた」すずだけでなく
  • それを平気で(もないが…)読んでいる読者も

そうなのかもしれない。

「因果」そして「一貫性」

「なんでうちが 生き残ったんか わからんし」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p124)

「わからんし」は

  • 生き残ったのが「晴美」ではなく「すず」であることに何か理由があって、その理由が理解できない、ということではなくて
  • そもそもそれに合理的な理由などない、という意味で言っているのだろう。

晴美を亡くした直後の「第33回(20年6月)」p40)では「どこで 間違ったのか」と強い自責の念にかられていたすずであるが、ここでは、それは選ぶ事の出来ない偶然に過ぎないという理解に至っているように見受けられる。

  • そしてこの「晴美」は実は「テル」でもある。

第22回(19年12月)」の納屋での一夜。すずは水原哲のオミヤゲを羽ペンにしようと鉈を持ち込んでいた。

  • テルと心中未遂を図った水原哲である。
  • 彼がその夜その鉈を使わなかった(結果「すず」が生き残った)のには「合理的な理由などない」のである。

「晴美さんを 思うて泣く資格は うちには ない気がします / でもけっきょく うちの居場所は ここなんですよね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p124)

「晴美さんを 思うて泣く資格は うちには ない」のは、すずが生き残って晴美が亡くなったのが選ぶ事の出来ない偶然に過ぎず、晴美が亡くなったこととすずの存在とに直接の因果関係がない、ということに思い至ったということであろう。

  • もし因果関係があるのであれば、泣く資格や責められる資格さえ生じうるが、そうではない、ということ。

同様に「テルさんを思うて泣く資格もうちにはない」。

  • 心中未遂に至る一連の流れの中にすずがいるのは確かだが、それはテルの死とすずの存在とに直接の因果関係がある事を意味しない。
  • だから泣く資格も責められる資格もない。
    • ない、のだが、外的要因によって「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」を受け止めた上での、すずが自分自身で整理した個別の「一貫性」の果てではある。

それが「居場所」。

  • それは静的な物理的な場所というよりも、言い換えれば
    • (後述の)「その記憶の器として この世界に在り続ける しかない」という動的な、というか、
    • 終わりのない取り組みそのものを指すのであろう。
  • これは「第37回(20年8月)」で径子が「すずさんの 居場所はここ」と言ったのと同じ趣旨の「居場所」なのであり、つまり径子の言葉が、しっかりとすずに受け止められている証左でもある。

「この世界で 普通で / まともで 居ってくれ / わしを笑うて思い出してくれ / それが出来んようなら忘れてくれ」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p124-125)

1年前の「第22回(19年12月)」に水原哲が北條家を訪ねてきた時に交わした約束を思い出すすず。「普通で まともで」あるために、すずは水原哲に声をかけない。

「すずが家を守るんも / 水原哲が国を守るんも」全く自由な選択をしたのでは決してなく、外的要因によって「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」ではあるが

  • そこにも個別の「一貫性」があり、それは互いに尊重すべきで、決して踏み躙ってはいけない。

それが水原哲との約束であった。

「それが出来ん」とはつまり「水原哲を思うて泣く」ことで

  • 「晴美さんを 思うて泣く資格は うちには ない」ように
  • 水原哲を思うて泣く資格もない

と、すずは考えている。

  • つまり、水原哲にもう会えないのも、晴美が亡くなったことと同じように、すずの存在との直接の因果関係がないことである。

直接の因果関係がないことであっても、それを受け止めた上で、自分なりの「一貫性」を保ちつつ今その状況下で出来うる主体的選択をしていくことが「普通で まともで」あること。

  • すずが1年前に水原哲を選ばなかった、ということも、外的要因が大きいとしても、すずが「一貫性」を保つため出来うる主体的選択。

そして「普通で まともで」あるためには、さらに必要なことがある。

笑うたびに 思い出します

「うちはその記憶の器として この世界に在り続ける しかないんですよね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p126)

外的要因によって「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」の下で、すずが自分なりの「一貫性」を保つための主体的選択。

  • それは、それ自体が「普通で まともで」あるために必要なことだが
  • (その結果としてのテルの死も含めて)その記憶を守ることも「普通で まともで」あるために必要。

それはある種の責任の取り方だとも言える。

人は気軽に「責任」「セキニン」と口にするが、起きてしまったことに(一般的な意味での)責任を取ることは人には出来ない。

  • 時間を巻き戻すことは出来ないし、なかったことには出来ないから。

人が出来る(おそらくは唯一の)責任の取り方は「忘れないこと」。それこそが「記憶の器として この世界に在り続ける」ということの意味。

  • (勿論そこに笑顔など入っている筈がない)

「いまあなたの笑顔の端に 波を切る青葉が宿っていた / うさぎの跳ねる海が さぎの渡る空が宿っていた / わたしがちいさく / 晴美さんがちいさく宿っていた」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p127)

波を切る青葉、さぎの渡る空は、すずが見たことのない筈のものなので

  • これらは水原哲の記憶
  • もしくはそうした記憶を水原哲が持っているであろうというすずの想像

そして勿論この「晴美」は「テル」が置き換わったもの。

  • ただこれはすずの想像でしかないので、水原哲の笑顔の端にテルが本当にちいさく宿っていたかどうかは定かではない。

「テル」が「晴美」に置き換わり続けている理由は、下記の項目「晴美さんとは 一緒に笑うた記憶しかない / じゃけえ 笑うたびに 思い出します」にて説明。

「あっち見てってええ? / 何のフネが 居りんさるんかね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p126)

実際の晴美の台詞は「あっち見てってええ? / なんの船が 居りんさったか お兄さんに 教えてあげるん」である。晴美が大好きなお兄さんにも言及がない。

  • これは続く「青葉よ」に繋げるために差し替えられた台詞。
  • フネを片仮名に変えてあるのは「晴美」が実は「テル」であるということを指し示す手掛かりにもなっている。

そして「晴美」が実は「テル」であるならば

  • 「居ったのは 青葉よ 晴美さん」は
  • 「居ったのは 哲さんよ テルさん」

そうテルに呼びかけているのだ。

「わたしのこの世界で出会ったすべては」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p128)

「わたしが」ではなく「わたしの」であることから、この世界、出会ったすべて、あるいはそれらの記憶は、「わたし」なりの「一貫性」を保ちつつなした主体的選択の果ての産物であり、ある意味「わたし」はそれらの所有者もしくは創造主とも言えるのかもしれない。それらを忘れてはいけない、という重い責任も伴って。

「晴美さんとは 一緒に笑うた記憶しかない / じゃけえ 笑うたびに 思い出します」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p128)

「笑うて思い出してあげよう思います」ではない。笑う度に「必ず」思い出す。頻度と覚悟が全く違うのだ。それが「忘れないこと」即ち「責任を引き受ける」ということなのである。

ただ、「第35回(20年7月)」で「リンが死んで良かった」を置き換えてしまった(言語化できないことによる)精神的抑圧はまだ続いている

  • (その為、リンにつながるテルの事に一切触れず、全て晴美に置き換わっている)

ので、背景は「歪んどる」まま。

「水鳥の青葉」の正体

空を埋めるウミネコの群れ

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p126)

「青葉」「波のうさぎ」「サギ」はいずれも左向きなのに対し、様々な向きのウミネコは、p126)中段右の現実描写を意味する太い枠線のコマにわざわざ描かれていることからも、この日実際に飛んでいたものと思われる。

  • そしてそのウミネコのなす列が、まるで青葉が空に浮かんでいるように見えたのが、空中に浮かぶ青葉の正体
    • 海面の残骸が浮かんだのではない
    • 副題も「水鳥の青葉」だし

なお、青葉は11月20日に除籍。3番砲塔は17年10月に損傷後撤去されている。


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  • 更新履歴
    • 2022/04/21 – v1.0
    • 2022/04/22 – v1.0.1(「タイトル」を「副題」に修正)
    • 2022/09/14 – v1.1(晴美の服が交換されなかった理由や居場所の意味を追記し、さらに「テル」が「晴美」に置き換わっている事を中心に説明を追加/整理)
    • 2022/12/23 – v1.1.1(用語の修正)
    • 2023/03/13 – v1.1.2(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/04/03 – v1.1.3(読み易さを改善)
    • 2023/08/18 – v1.2(「居場所」が「第37回(20年8月)」のそれと同じである事を追記し、さらに、「あっち見てってええ? / 何のフネが 居りんさるんかね」を追記)
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