まずは判りやすいほうの暗示から
「八百長商店」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p124)
「八百長」は真剣に戦っているふりをしながら示し合わせたとおりに勝負をつけるいかさま勝負を指す言葉。
この商店の名前が日の丸の旗とともに描かれている中段右のこのコマでは、あえて吹き出しで「商店」の文字を隠し「八百長」と見えるようにしている。
戦争指導者層は負けると判っていながら、国民に対してはさも真剣に戦っているかのように振る舞っていたことを暗示している。
「えかったねえ 周作君は……」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p125)
周作の同級生は出征している。決して嫌味を言っているのではないと思うが、周作が出征していない事が特異である事を際立たせている。
「うちの子も 戻って来たら ええ嫁を探して やらんとねえ」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p125)
「第17回(19年10月)」中巻p47)小林の伯母の「すずさんは ええ嫁さん じゃね」の伏線。
また、すずは自分がかなり特殊な立場にいることを自覚させられている。
そして、息子を出征させられた母親は、戻ってくると信じている。
テキパキ家事をこなすすず
上段左のコマで、右のコマでは掛かってなかったズボンが、上着と同じハンガーに掛けられている
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p122)
同時に左のコマでは、右のコマにはあった「大日本婦人会」のタスキの下のズボンがなくなっていることからも、周作と円太郎の2人分を順にアイロンがけしている様子を表している。また差し込む光が作る影の様子が変化していないことから、すずが2人分を手早く済ませている様子も表している。自己評価はともかくとして、実際のすずは「ぼーっと」はしていない。
左下のコマで、折角「ええ嫁」と褒められたのにうつらうつら
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p125)
興味のない話だからということもあるだろうが、朝から晩まで働き詰めの「嫁」は相当疲労が溜まっている筈で、それも居眠りの要因の一つなのだろう。
すずとサンの関係
「行って みたい ねエ!」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p123)
最後のエがカタカナになっており、サンが通常よりかなり強い調子で言ったことを示している。あるいは思うように歩けない自分に少し腹を立てているのかもしれない。これが「第28回(20年4月)」には国民学校よりはるかに遠い二河公園まで出掛けられる程回復するのであり、サンにとってそれがいかに嬉しいことかが判るという仕掛けになっている。
「ふふ 何ね 言うてみた だけじゃ!」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p123)
前のコマですずが腕まくりして張り切りだしたので、慌てて前言撤回するサン。
右上のコマで、タスキをかけた時に何かを思いついたすず
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p124)
サンの「言うてみただけ」を誠実に実現しようとするすず。それによりサンは(「第13回(19年8月)」の砂糖の回で怒らずへそくりを差し出すほど)恩を感じたのだろう。
「それを杖に した方が よかったかも…」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p128)
「第28回(20年4月)」にはニ河公園迄杖をついて歩ける程には回復していることから、この時点でも、サンは杖があればある程度の距離は歩けるのだろう。
サンのイメージ(別レイヤー)が現実の風景に重なるという驚きの演出
「尋常小学校から 国民学校へ変わっ てもここは昔の まんまじゃ」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p126)
逆に、場所は変わっていなくても、そこに集う人々は大きく変わってしまったということもあるのかもしれない。これを機に、現実の風景に別レイヤーを重ねるサンの想像力が起動する。
「周作が四年生の時 うちの人が一ぺん 解雇されてね / 同じ組の人も ようけ失業して 引っ越しんさった」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p126)
円太郎の解雇が昭和6年(1931年)。満州事変はその年の9月なので、程なく復職したのだろうが、周作はこの時広島の知人か親戚の誰かに預けられたのだと思われる。
なお、晴美が昭和13年生まれ、久夫が12年生まれなので、径子はキンヤとは遅くとも11年(1936年)には結婚している筈。そうだとするとその時径子20歳。円太郎の復職祝いを買いに行った時は恐らく径子15歳。
「大ごとじゃ 思えた頃が なつかしいわ」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p127)
婦人方が皆「大日本婦人会」のタスキをしている中、サンだけがタスキをしないまま、現状を憂いている発言をしている。
勿論急な参加でタスキが用意出来なかっただけではあろうが、結果的かつ視覚的に、サンだけが違うレイヤーにいるかのような効果が生じている。
すずの背中、腰に旭日旗が
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p127)
このコマだけで、以降のコマでは挿さっていない。一方でこのコマだけすずは「大日本婦人会」のタスキをかけていない。つまりこの画面に「大日本婦人会」は存在していない。
大日本婦人会の母体の一つで割烹着とタスキを会服とした「大日本国防婦人会」は満州事変後に結成されたもの。つまりこのコマは「大日本国防婦人会」が存在していなかった頃(=「うちの人が一ぺん 解雇されてね」より前のある時代…次項で説明)を思い出しているサンの視覚イメージが描かれているのだ。
そしてその「大ごとじゃ 思えた頃」のサンの視界(レイヤー)には、すずも含まれている。
p127)右下-128)右上に登場する女の子は誰か?
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p127), p128)
この女の子は径子。その小さい頃を思い出すサンの視覚イメージが、現実世界に別レイヤーとして描かれている。
但し満州事変の昭和6年(1931年)は、径子15歳、周作10歳で、「第30回(20年5月)」でもその頃の姿が描かれており、このサンの視覚イメージはそれを遡ること大正8年(1919年)11月9日に呉工廠で盛大に行われた戦艦「長門」進水式の時のものだと思われる。旭日旗の小旗を左手に(径子は晴美と同じく左利き)持っているのはそのため。当時径子は3歳。
そして径子のスカートは晴美のそれと同じデザイン。つまり「最終回 しあはせの手紙(21年1月)」で孤児の少女にと径子が思案する晴美のスカートは、径子が着ていたものなのだ。
そして、大正8年(1919年)は三・一運動の年でもある。
- 更新履歴
- 2022/02/27 – v1.0
- 2022/05/25 – v1.1(「すずの背中、腰に旭日旗が」の内容をより判りやすく修正)
- 2022/06/19 – v1.2(大正8年(1919年)が三・一運動の年でもある旨追記)
- 2023/01/05 – v1.3(「まずは判りやすいほうの暗示から」を追記)
- 2023/03/13 – v1.3.1(「次へ進む」のリンクを追加)
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