円太郎が死んだと思わせて
鎮守府の年表であると同時に円太郎の年表
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p11)
明治22で背負われているのが円太郎、母親といるのはおそらく円太郎の姉、周作の伯母。
だからこの年表は呉鎮守府の年表であると同時に円太郎の年表でもある。明治22年は1889年なので、昭和20年には満56歳。周作が24歳だから、32歳の時の息子。56歳で徹夜勤務は大儀だろう。この頃は55歳定年が広まっていたはずなので、人手不足かそれとも余人をもって代え難かったのだろうか?
年表までこしらえて円太郎の生涯を振り返っているので、読者は円太郎が死んだのだと思うだろう。そして「第32回(20年6月)」で生きていたとほっとさせておいて…
「冬の記憶」「大潮の頃」との関係
年表の昭和6年、工廠に再就職した円太郎を見送る北條家
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p12)
周作(当時10歳)はまだ呉にいるようだ。「冬の記憶(9年1月)」は周作12歳の年の冬のはずだから、尋常小学校6年生の冬になる。周作が広島の学校に通ったのは、いつなのだろうか。
年表の昭和10年に「呉市主催 国防と産業 大博覧会」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p12)
「第42回 晴れそめの径(20年11月)」でもわざわざメモ書き風に強調されており、「大潮の頃(10年8月)」との時系列の矛盾(※「呉市主催 国防と産業 大博覧会」の会期末は昭和10年5月上旬)は意識的に組み込まれたもの。
どうしようもない周作
「ああ無事じゃ ったかね 周作」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p18)
この日は土曜日。この頃は土曜日でも半ドンは取り止められているかもしれないが、それにしても周作は帰りが遅かったようだ。それで皆一層心配していた。
では周作は何をして遅くなっていたのか? 海兵団で訓練されることになってとても不安になった周作は、軍服を包んだ風呂敷包みを抱えたまま、恐らくリンの所に行っていたのだろう。(お砂糖の回「第13回(19年8月)」で描かれていたとおり)行くためのお金は十分あるのだし。
「ほうか… まあ何かありゃ 鎮守府から 連絡があろう / 昔と違うて工廠内へは 簡単に入れんけえ 待つしかないわな…」「……… ………」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p18)
一月前の「第28回(20年4月)」で、中巻p138)「安心しました」と口では言ったすずであるが、それは単に自分に言い聞かせていただけで、実は安心してはいなかった。
そして空襲は午前中のことであるのに、北條家より遥かに早く情報が届くであろう軍法会議で勤務していた筈の周作は、何故か全く状況を把握していない風情。周作はこんな遅くまでどこに行っていたのか。すずの不安 / 疑念は膨らむばかりで、(周作に指摘されるまで)鍋が噴いているのにも気づかない。
- (※円太郎の心配はしているだろうが、そのせいで心ここにあらず状態になっているのではないということ)
- 更新履歴
- 2022/03/14 – v1.0
- 2023/03/12 – v1.0.1(関係する投稿のリンクを追加)
- 2023/03/13 – v1.0.2(「次へ進む」のリンクを追加)
- 2023/05/12 – v1.1(「ほうか… まあ何かありゃ 鎮守府から 連絡があろう / 昔と違うて工廠内へは 簡単に入れんけえ 待つしかないわな…」「……… ………」を追記)
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