そんな筈ではなかったのに
懐中時計の針が11時02分をさしている
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p28)
「第30回(20年5月)」p17)欄外の説明によれば、爆撃は5月5日10:27am-11:07amとのことなので、爆撃終了5分前までは、円太郎は無事だった可能性がある。
また、11時02分は長崎への原爆投下の時刻でもある。
長崎への原爆投下は、広島とは異なり、当初は小倉に投下されるはずだった。すず達の、全く自由な選択をしたのでは決してなく、外的要因によって「それしか選択肢がなく、余儀なくされている事」と、そうなるはずではなかった11時02分。
そして、晴美の四十九日は8月9日、長崎への原爆投下の日。
「お父ちゃんが 海軍病院に!?」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p29)
2つのコマの歩幅の差は、そのまま径子の気持ちの差。
「明日にでも」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p30)
既に旅行用のトランクが準備されつつある。しかし明日とは急である。下関の黒村家には電報でも入れたのだろうか? 商売しているなら電話はあるだろうが。
そもそも交流もないだろうから、とにかく行ってから直談判しようということか。黒村家としては晴美を取り返せるので文句はないだろうし。
「学校は?」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p30)
背景に見えるのは学校。
「晴美をお父ちゃんの お見舞いへ連れてって くれるかね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p30)
円太郎とも暫く会えなくなるから、という趣旨だったが。
すずを列に並ばせて、径子が晴美を連れて行く選択肢もあり得たが、すずもまだ円太郎を見舞っていないことに配慮したか。径子の気遣いが結果的に裏目に…
径の進む方向に
径子の勤務先のモデルとなった寺は灰が峰の中腹にあるが、地図では平野部になっている
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p29)
もし実際に平野部にあったら(小林家同様空襲で焼かれて)現存していない筈。
- 灰が峰の中腹だと朝日遊廓より手前になってしまうので「第31回(20年5月)」で触れたp27)「途中まで一緒に 行こうや」が効果的にならないし
- 「第17回(19年10月)」で小林の伯父が紹介状を書くくらい関係が深いのだから、当然近隣にある筈
ということで移したのだろう。
青葉には水原哲も描かれているが
- 6月20日に特殊警備艦(というと聞こえが良いが、要は修理も出来ず燃料も無いので、繋留して浮き砲台にしたということ)に指定されており、彼が残留組だったかは定かではない。
- 「第42回 晴れそめの径(20年11月)」で触れる予定の事情を踏まえれば、既に別の場所に移っていたかもしれない。
「まっすぐ行って つき当たりを右 でしたね」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p30)
何の変哲もない道順なのだが、なぜわざわざすずに復唱させたのか?
- すずが普通と違う道順を辿ったわけではなく、従って
- p31)の「軍法会議の次が海軍病院」という位置関係と
- 扉でも描かれている実際の位置関係(海軍病院の次が軍法会議)に
- 矛盾が生じる
- p31)の「軍法会議の次が海軍病院」という位置関係と
ことを読者に気づかせ、次項の「仕掛け」を有効なものにする為である。
「こっちで ええん?」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p31)
呉駅から「まっすぐ行って つき当たりを右 でしたね」で向かった場合、軍法会議は海軍病院の階段よりさらに先にあるので、軍法会議の前を過ぎてから海軍病院にたどり着くことはありえない。
軍法会議まで行ってから行き過ぎたことに気づいて引き返したということ。これが仕掛けになっている(次項参照)。
「しものせき いうて 遠い?」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p31)
「しものせき」を逆さに読むと「きせのもし」である。キセノはすずの母親。偶然だろうか。このコマの前後ですず達に道を行き過ぎ逆戻りさせたのは「しものせき」を逆に読め、ということのヒントだったのかも。「しものせき」とわざわざ平仮名で書いてあるし(晴美の台詞であっても通常は漢字である)。
なお、「第20回(19年11月)」でこの物語「この世界の片隅に」との関係性について言及した「火の鳥 黎明編」の91頁目では、呪いか何かのために意味不明の祝詞を叫んでいるヒミコの足元の台に「NORITO NO SERIFU O SAKASAMA NI YOME」とさりげなく(?)書いてあって、その指示(祝詞の台詞を逆さまに読め)通りに読むとある民謡の歌詞になる、というちょっとした仕掛けがある。単に逆さまに書く/描くだけではなく、気づきにくいところにヒントを盛り込む、というあたりも共通している。
「こんど晴美の お兄さんも 描いてねえ」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p36)
晴美の最期の願い。
しかしすずが久夫に会った事がないのは賢い晴美も承知している筈。
p31)で「しものせき いうて 遠い? / ひろしま より遠い?」と晴美はすずに聞いた。賢い晴美は、遠い下関に行けば呉には戻ってこれない(母の径子にも会えなくなる)だろう事に気づいていたのだ。だからすずに、自分の行き先を念押しした上で、兄の久夫の似顔絵を描く為に下関に来て欲しい(勿論母の径子を連れて)、と願ったのだ。
「…汽車 もう出た かねえ / おなか すいたねえ……」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p35)
下関に行けば兄には会えるが母とは会えなくなる。怖い爆撃からどうにか助かった晴美は、下関に行かなくてもよい理由を探しているのだろう。それなのに、すずは「大丈夫」と繰り返し否定する…
- 前項の「こんど晴美の お兄さんも 描いてねえ」は、そんな晴美のせめてもの願いだったのだろうし
- 以下で触れる「晴美との距離感」(すずが晴美と距離を置いていること)が、ここにも描かれている…
「下関いうても郊外じゃし」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p32)
久夫から(なのかは疑問…というか多分違うが)の小包で、正確な住所が北條家に伝わっている。
下関は、金子みすゞも都会と呼んでいるし、実際空襲もあった。郊外でなければ疎開させる意味が薄いのだろう。
(象徴としての)大和(ふたたび)、そして晴美との距離感
「…ここへ居ったら いろんな事がわかる」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p32)
ずっと意識がなかった筈だが…
「すずさん / 大和が沈没 したげな」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p32)
「それで おねえさん 寂しげに……」
こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p32)
径子が寂しげにしているのは「径子が晴美に会えなくなるから」だというのは直接的・論理的理由ではあるが、それだけでは(すずにとって)ヒト事に過ぎない。
それに加えて「(「第10回(19年6月)」で触れた通り、すずにとっては径子を思い出す)大和が沈没した」と円太郎から聞かされた事で、論理面だけでなく感情面でも径子の「寂しさ」を、すずは実感させられたのだろう。
- そして晴美も当然寂しいはずだと同情的になったすずはつい、p32)「ちいとだけ ちいとだけ」という晴美の我儘をきいてしまったのだ…
なお、晴美が疎開すればすずも晴美と会えなくなるのだから、すずも径子の寂しさを感情面でも実感できるのでは、とも考えそうになるが、
- すずと晴美の関係は、径子のそれとは感情的な立ち位置が明確に異なっている。
- それはすずが最後まで「晴美さん」と距離を置いた呼び方で通していた事からも判る。
そして、すずと晴美の間に感情的な距離を敢えて置いたのは、もしもっと感情的にも近い関係であれば
- 「第33回(20年6月)」以降、到底物語が進められない精神状態にすずが置かれると考えてのことと
- もう一つは、「最終回 しあはせの手紙(21年1月)」で登場する孤児の少女が、すずにとって晴美の身代わりのような位置づけになってしまいかねない(少なくとも、読者にはそう見えそうだ)から
- 更新履歴
- 2022/03/17 – v1.0
- 2022/06/11 – v1.0.1(「しものせき」とわざわざ平仮名で書いてあることを追記)
- 2022/06/22 – v1.1(「こんど晴美の お兄さんも 描いてねえ」を追記)
- 2022/11/11 – v1.2(「火の鳥 黎明編」との関係性を追記)
- 2022/11/13 – v1.2.1(「ある民謡の歌詞」のリンクを追加)
- 2023/01/09 – v1.3(「(象徴としての)大和(ふたたび)、そして晴美との距離感」を追記)
- 2023/03/13 – v1.3.1(「次へ進む」のリンクを追加)
- 2023/04/10 – v1.4(「…汽車 もう出た かねえ / おなか すいたねえ……」を追記)
- 2023/05/10 – v1.5(「径子の勤務先のモデルとなった寺は灰が峰の中腹にあるが、地図では平野部になっている」を追記)
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