第10回(19年6月)

The view from Mt. Haigamine

疑問符で「疑問を持てよ」と読者を促す

中段のコマの発芽した「こまつな」(小松菜)

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p132)

発芽した疑問(符)。

「あんたー」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p133)

すずは(読者も)「キンヤ」の事をまだ知らない。だから

  • 大和を見て黒村家に戻る径子を見れば、彼女の夫は大和の乗員なのかと想像するのも無理はない
  • 他方で、そもそも夫婦喧嘩かなにかで実家の北條家に戻ってきていたかのようにも(この時点ですず / 読者に与えられた情報では)見えていた筈で、大和の乗員なら別に実家に戻らなくても顔を見ずにすむ筈なのに、と

すず / 読者には径子の行動はますます不可解なものになる。

下段左下のコマの成長した「こまつな」(小松菜)

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p136)

成長した疑問(符)。

  • 大和の乗員なら夫婦喧嘩するほど一緒にもいられないだろうし
  • ましてや(夫が)帰るべき家が建物疎開で、遠く下関に引っ越すのに「ええ機会じゃけ」と離縁

すず / 読者には、径子の行動が支離滅裂にしか見えない筈。

そしてこのコマの上のコマと右のコマの、晴美のとても辛そうな表情

  • 勿論久夫と離れ離れになったからだ。
  • すず / 読者にはまだそのことは判らないけれども、径子にはそれが痛いほど伝わっているだろう。

それが次回「第11回(19年7月)」の「ええ ええ ……… / 夫婦 仲良うて 結構な じゃない / 二組 揃うて」という径子の台詞の前提となっている。

  • 実はこの径子の台詞、彼女が「二組」を見て拗ねたとかそういうことではないのだ(詳細は「第11回(19年7月)」にて)。

疑問を持つべき箇所はまだまだあって

中段のコマのすずのふきだし2つと、それに続く、超広角レンズで撮影したかのようなたんぽぽ

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p131)

それらを並べると「サやえんどう」「イも」「タんぽぽ」。頭文字をつなげると「サイタ」。これを「くどくど」と重ねると「サイタサイタ」。

これが何を意味するかは「第27回(20年3月)」で説明予定。

「こまつな」の秘密

「配給所で貰うた」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p129)

「貰うた」というからには配給ではない(配給はタダではない)。誰かがくれたのだ。それは誰なのか。

  • 配給がタダではない事は作品中随所で描かれているが、例えば
    • 第5回(19年3月)」p94)欄外で直接作者から「配給 とはいっても、タダではありません。専用の切符か通帳と現金が必要なのだ。」とあるが、切符や通帳は引換券ではなく、一人が買える量を制限する為のもので(下記関連記事はその一つ米穀通帳についてのもの)
    • 第13回(19年8月)」で砂糖の公定価格に触れているように、その決められた価格は支払わなければならないのだ。

「六歳の子と 張り合うて」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p131)

とすずのことを言っているつもりが、自分も黒村家と張り合うている事に気づく。

なお、この時点で6歳ということは晴美は4月生まれ。

「こまつな」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p132)

「こまつな」=「子待つな」

径子は久夫が尋ねてくるのを待っていた(当時の常識では、長男を嫁が連れ戻ることは出来ないので、長男が自ら黒村家を出た、という形を期待したのだろうか…)。しかし黒村の両親がそうさせないのか、久夫が祖父母の気持ちも慮ってなのか、久夫は来ない。

もしここで待ち続ければ、建物疎開に立ち会えず背比べの柱も無くし、下関へ疎開されて連絡もできなくなったかもしれない。「こまつな」の種は、そうならないための作者からのメッセージだったのだろう。

晴美が強く興味を持つ「東京の野菜」「どこでも芽が出る」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p129-130)

晴美が強く興味を持つ様子から、それが手がかりの一部だと読者は気づくことができる。

まず「東京の野菜」は、この「こまつな」の種をくれた人が(平成19年当時)東京在住の人だぞ、と。

そして、径子が黒村家と「張り合うて」いる(けれども期待通りにはなりそうもない)事に気づかせるためには、晴美とすずが張り合う場面を見せる必要があるが、「どこでも芽が出る」なら、種を蒔く場所で仲良く晴美とすずが張り合うことができるぞ、と。

(象徴としての)大和

「お母さん 大和が 居ってじゃ」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p131)

第33回(20年6月)」下巻p39)で晴美の(すずの想像内での)最後の台詞になる台詞。すずにとって大和は径子を(あるいはその逆で)連想させるもの。

また、晴美にとっては軍艦好きの兄久夫を思い出す象徴であり、径子にとっては、軍艦好きの久夫が、じっと動かない大和のように、黒村家から動くことはないのだと改めて悟る(で、諦めて帰ることにした)場面でもある。

下段の左右のコマのそれぞれはいずれも、すずが着ている服が異なる

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p132)

それまでのコマとも異なっており、一定期間が経過してから「こまつな」(小松菜)の種を蒔いたことを示している。畑の準備に2週間、種蒔き後3〜4日で発芽することとも符合する。同じ場所を描いているので、背景は同じ。

径子が不在の期間は大和が不在の期間(大和は4月22日に呉を出撃し、6月20日に初めて主砲を発射(対空砲弾)した後、6月24日に戻っている)とほぼ重なる。


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  • 更新履歴
    • 2022/02/28 – v1.0
    • 2022/06/28 – v1.1(「晴美が強く興味を持つ「『東京の野菜』『どこでも芽が出る』」を追記)
    • 2023/01/06 – v1.2(「疑問を持つべき箇所はまだまだあって」を追記)
    • 2023/03/13 – v1.2.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/05/16 – v1.2.2(「種をくれた人」のリンクを追加)
    • 2023/09/27 – v1.3( “下段左下のコマの成長した「こまつな」(小松菜)” に、晴美のとても辛そうな表情についての説明を追記)
    • 2024/05/27 – v1.4(配給がタダではない事が作品中随所で描かれている旨追記)
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