呉は軍都
中央のコマの艦影、一番下は空母天城、下から2番目は戦艦伊勢だろうか
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p116)
呉が軍港で、戦争の担い手であったことを描き忘れてはいない。
左下のコマで、径子とすれ違うのは、円太郎と同じく夜勤明けの工廠勤務の人か?
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p116)
山の上には大砲。呉が軍都で防備を固めていることを描き忘れてはいない。
大砲が3門しか無いように描かれているが、米軍側は対空砲火として大口径兵器160、より小さな口径の兵器数百と推定していたようだ。
This port was defended by hundreds of anti-aircraft guns, which US Navy intelligence estimated as including 160 large-calibre weapons and hundreds of smaller-calibre weapons.
Operations & Codenames of WWII(2024)”Operation 1st Raid on Kure”. Operations & Codenames of WWII. https://codenames.info/operation/1st-raid-on-kure/ , (2025年2月28日参照).
また
The attack by 321 aircraft was unsuccessful
Operations & Codenames of WWII(2024)”Operation 1st Raid on Kure”. Operations & Codenames of WWII. https://codenames.info/operation/1st-raid-on-kure/ , (2025年2月28日参照).
と、真珠湾攻撃と同規模の航空機321機が投入されたこの空襲は、米軍側としては、成功したとは見做されなかったようだ。
ウルシー
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p117)
「ウルシー」はウルシー環礁(Ulithi Atoll)で、大戦初期に日本軍が無線所と気象測候所を設置するなどしたものの米軍による空襲後に放棄。その後米軍の集結地点として利用されたが、米軍がフィリピンに前進すると放棄された。場所は以下のGoogle Mapを参照されたし。
1945(昭和20)年3月14日にウルシーを出たTask Force 58(第58任務部隊)は4つのTask Group(任務群)に分かれていて、そのうち下記の3つが呉、1つ(TG 58.2)が神戸攻撃を担当した。p118)で空母の進路が分かれているように描かれているのはそれを表しているのだろう。
- TG 58.1
- CV: Hornet, Bennington, Wasp II
- CVL: Beleau Wood, San Jacinto
- TG 58.3
- CV: Bunker Hill, Essex, Hancock
- CVL: Bataan, Cabot
- TG 58.4
- CV: Intrepid, Yorktown II
- CVL: Langley II, Independence
晴美は左利き
上段のコマで、晴美は左手で草を摘んでいる
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p117)
晴美は(径子と同じく)左利き。径子が左利きなのは、「第9回(19年5月)」(海軍記念日の回)や「第40回(20年9月)」(枕崎台風の回)で描かれている。
上段中央のコマで、晴美の左手がすずの腰を掴んでいる
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p121)
左利きなので。そして1945(昭和20)年6月22日のあの時も、晴美は左手ですずの右手を握っていた。
さすが母娘?
下段左のコマで、サンが「くどくどくど」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p122)
晴美と径子が左利きで似ているように、径子とサンは「くどくどくど」が似ているのだった。サンがすずの頭を、すずが晴美の頭を、それぞれ撫でている。
「そりゃ 夜勤明け じゃし / この陽気 じゃし」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p122)
p122)欄外によれば初空襲は「午前7:20〜11:05」である。円太郎の夜勤が例えば23:00〜7:00だとすれば、前日の遅くとも22時頃には起床して出勤している筈。初空襲終了は翌朝11時を過ぎているのだから起床後13時間は少なくとも経過している。
- 加えて
- 円太郎は昭和20年には満56歳になる(「第30回(20年5月)」参照)。当時は55歳定年が広まっていた筈だから、65歳定年の現代風に置き換えれば66歳みたいなもの。
- そしてこの頃は配給もますます厳しく、食事の量も十分でない上
- 夜勤明けで疲れ切っている(p117)では欠伸が止まらないようだ)
のだから「地べたで 空襲中に 熟睡って あんた…」とサンは「くどくどくど」だけれども、熟睡してしまうのも無理はない…というか、体力も食事も不足している中、睡眠まで確保できなければ死んでしまう。そんな深刻な状況なのである(※円太郎がとぼけた性格だからうっかり熟睡した、などということでは決してないのだ)。
なお、この日1945(昭和20)年3月19日は、実際には、3月では最も冷え込んだ3日間の3日目。

- 北條家はほぼ西向きの斜面にあるから
- 午前中の日当たりもあまり良くないだろうし
- うっかり屋外で熟睡などすると凍死しかねない。
- 3月の3日間の3日目とサンがサン個も並んでいるこの冷え込み。
- 「この陽気」とサンは言っているし
- この回冒頭から如何にも暖かそう(たんぽぽは咲き、土筆は生えているし、日差しは燦々(サン サン)と降り注いでいるではないか)だが
- それらは最後のオチの為の、あくまでも「物語上の演出」ということなのだろう。
真珠湾攻撃を意識させるという驚きの演出
さて、では何故実際の天候に反してまで、このような「物語上の演出」が必要だったのか。
- 「この陽気」とサンが表現する、春のような穏やかな一日が、突如現れた無数の敵機によってぶち壊される。
- この落差は読者を戸惑わせ
- その戸惑いは怒りのような感情に変わるだろう
- 「米軍はなんて非道なのか!」と。
- この作品『この世界の片隅に』は
- 被害者目線で描かれていて加害者の視点に欠けるという批判を目にすることがあるが
- (例えば “この世界の片隅に 加害” で検索すると色々出てくる)
- 正に読者も巻き込んだ「被害者目線」の怒りだ。
- 被害者目線で描かれていて加害者の視点に欠けるという批判を目にすることがあるが
- ところで上記「呉は軍都」で触れた通り、呉初空襲は
- 投入された航空機数の規模や
- 同じ空母艦載機から軍港への攻撃でもあることから
- 真珠湾攻撃になぞらえられることがある。
真珠湾攻撃の直前、1941(昭和16)年12月7日午前7:30(現地時間)のホノルルの気温は
At the Federal Building in downtown Honolulu, the U.S. Weather Bureau station reported a 7:30 a.m. temperature of 73°F, with a rela- tive humidity of 64 percent.
Sean Potter(2007). “December 7, 1941: The Attack on Pearl Harbor” WEATHERWISE. NOVEMBER / DECEMBER 2007. pp.18-19. https://www.aos.wisc.edu/~hopkins/Weather_History/Pearl_Harbor/Wx&Pearl_Harbor_weatherwise2007.pdf , (2025年3月19日参照)
華氏73度(摂氏22.8度)、相対湿度64%と、日本の呉であれば5月か6月くらいの気候で、日曜日の朝の穏やかな一日の始まりだったようだ。それは体験者の回想では
“It was a beautiful, warm, sunny, and clear day. No one could possibly imagine what was to follow.”
Sean Potter(2007). “December 7, 1941: The Attack on Pearl Harbor” WEATHERWISE. NOVEMBER / DECEMBER 2007. pp.18-19. https://www.aos.wisc.edu/~hopkins/Weather_History/Pearl_Harbor/Wx&Pearl_Harbor_weatherwise2007.pdf , (2025年3月19日参照)
と表現されるもので、まさしくこの回で描かれた、敵機が現れる直前までの呉の様子そのものだ。
- 春のような穏やかな一日が、突如現れた無数の敵機によってぶち壊される
- この項冒頭で記した通り、それは確かに呉初空襲であり、同時に真珠湾攻撃でもある。
- つまりこの回は
- 呉初空襲を描きながら、同時に
- 真珠湾攻撃を受けた人達の気持ちも読者に追体験させていて
- しかも読者はそれに「気づかない」。
- この(「第9回(19年5月)」にも匹敵する)驚きの演出によって
- 加害者がいかに被害者の「痛み」に「気づかない」か、ということを読者に実体験させているのだ。
- 上記批判する人達も含めて「気づかない」わけだから
- これは(そういう批判を予期してもいる)作者からの皮肉でもある。
- 加害者がいかに被害者の「痛み」に「気づかない」か、ということを読者に実体験させているのだ。
ということで、サンが「この陽気 じゃし」と言い、たんぽぽが咲き、土筆が生え、日差しが燦々(サン サン)と降り注いでいるという「物語上の演出」がなされているのには、必然性があるのだ。
一方父と息子は似ていない…
「陰へ入れ / 伏せえ!!」
こうの史代(2008)『この世界の片隅に 中』双葉社. p121)
突然かつ初めての米軍機来襲でどうしたら良いかわからず立ち尽くしているすずと晴美に、的確な指示を出す円太郎。この指示のお陰ですず達は救われ、怪我をせずに済んだ。
- 他方周作は「第36回(20年7月)」で、F6Fの機銃掃射からすずを救う事は出来なかった…
- (救ったのでは? とお思いの貴方は「第36回(20年7月)」の「そっちへ ずうっと 逃げ! / 山を越えたら 広島じゃ」をお読み下さい)
- 更新履歴
- 2022/03/11 – v1.0
- 2023/03/13 – v1.0.1(関係する投稿へのリンクと、「次へ進む」のリンクを追加)
- 2023/07/21 – v1.1(「そりゃ 夜勤明け じゃし / この陽気 じゃし」を追記)
- 2024/03/19 – v1.2(「一方父と息子は似ていない…」を追記)
- 2025/02/28 – v1.3(米軍推定による呉の対空砲火の数、米軍機の数、「ウルシー」を追記)
- 2025/03/03 – v1.3.1(誤字修正)
- 2025/03/04 – v1.4(1945(昭和20)年3月の呉の日毎の気温についての記述を追記)
- 2025/03/05 – v1.4.1(誤字修正)
- 2025/03/19 – v1.5(第58任務部隊の呉初空襲実行TGの所属空母名を追記)
- 2025/03/19 – v1.6(「真珠湾攻撃を意識させるという驚きの演出」を追記)
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