第39回(20年8月)

The view from Mt. Haigamine

運動が物凄く苦手な周作

「明日海兵団で 剣道大会を やるらしうて」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p88)

明日は1945(昭和20)年8月15日水曜日。玉音放送が予定されていることは前日には連絡されていたのではと思うが…そんな日にあえて剣道大会を開催するものだろうか。

「いっこも 当てられん…」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p89)

運動が物凄く苦手な周作。

こんなに運動音痴なので、周作は、すずがF6Fの目の前に躍り出てしまう迄、走る彼女に追いつけなかったのだ。

  • 第36回(20年7月)」で触れたとおり周作はすぐにすずを追いかけているので、もし周作が人並みに走れれば、共同の井戸の手前で十分追いつけた筈。
    • あの場面だけ切り出されたので格好良く見えるが…

居る人、居ない人

昼間に径子が居る

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p90)

勤め先が焼けたからだろうか。それともすずの世話のために勤めを辞めたからだろうか。

隣組のうち知多が居ない

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p91)

前ページの回覧板で回覧済を示す署名があるにもかかわらず。

  • 単に自宅にラジオがあったのかもしれないが、恐らくは入市被爆による体調不良。
  • 小林の伯母も不在なのも同じ理由か、あるいは小林の伯父にこの日同行している可能性もある。

覚悟する謂れなど、ない

「そんなん 覚悟のうえ じゃないん かね?」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p92)

1つ前のコマの「広島と長崎へ 新型爆弾も 落とされたしの」という堂本の台詞は

  • すずの右真横からだったので
  • すずは聞き取れていない。

だからすずには

  • 前頁の「負けた いう事かね…?」から
  • 「…じゃろう のう………」
  • 「ハーー 終わった 終わった」
  • 「ソ連も 参戦したし まあかなわんわ」

と聞こえている。

つまりこの「覚悟のうえ」には、すずもその威力を目の当たりにした新型爆弾は含まれていない。当然である。あのような非人道的な兵器を使われることを覚悟する謂れなど、誰にだってあるわけがないのだから。

  • 「非人道的でない兵器」などあるのかと言われそうだが、あるとすればせいぜい(手の届く範囲だけしか攻撃できない、すずも製作した)竹やりくらいであろう

「…じゃろう のう………」のサンの表情は伏し目がちで、もう少し負けたと決まるのが早ければ孫娘の晴美を死なせる事はなかったのに、と思っているのだろう。

そして、堂本の台詞が聞き取れなかったことから躊躇なく発せられた「そんなん 覚悟のうえ じゃないん かね?」というすずの台詞の吹き出しは径子に重ねられている

  • 覚悟する謂れなどあるわけのない、あの非人道的な兵器が使われた同時刻に、径子はすずにp74)「不しあわせとは違う」と強がったが
    • 勿論晴美を亡くすことなど「覚悟のうえ」なわけがないし
    • 非人道的な兵器と同様、それを覚悟する謂れなどあるわけがない。

なのにそう強がった相手のすずの「そんなん 覚悟のうえ じゃないん かね?」という台詞を聞いて、径子は耐えられなくなり、p93)「……晴美 / 晴美……!」と泣き崩れてしまったのだ…

上段のコマの玉音放送が、ところどころ途切れている

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p91)

上記の通りすずが「広島と長崎へ 新型爆弾も 落とされたしの」という堂本の台詞を聞き取れていないことに気づかせる為の仕掛け。

  • 他方、刈谷はp91)中段のコマでもp92)右下のコマでもすずの右斜め前にいるので、すずには彼女の台詞が聞き取れたのだ。
    • 「ソ連も 参戦したし まあかなわんわ」の刈谷の顔が気持ち大きく描かれているのも、右斜め前(カメラから見るとより手前)に居るから。刈谷の顔が特別大きいからではない

すずの怒りの理由

「うちはこんなん 納得出来ん!!!」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p92)

第22回(19年12月)」で触れた、「普通で…まともで居」る為に、そして自分自身で整理した個別の「一貫性」。それを保てるならば、客観的に厳しい状況でもある程度までは耐えられるのかもしれない「一貫性」。

しかし「第35回(20年7月)」で触れたように、すずは自らの心の中にタブーを、解決する事の叶わないタブーを抱え込んでしまった。「一貫性」を保つ(ふりをする)為には、そのタブーをますます意識の奥底に封じ込めなければならない。無理やり封じ込めることでますます強まる精神的抑圧の圧力をいわば「ガス抜き」するが如く、すずは玉音放送で示された「一貫性の無さ」を槍玉にあげて(本来なら自らの一貫性の無さにぶつけるべきな)怒りをぶつけたのだ。

しかし、それは「ガス抜き」に過ぎない。怒りは(ある意味見当違いでもあり)根本的解決には至らない。だから、その精神的抑圧の表現である「左手で描いた世界」はその後も続くのだ。

水を汲み、太極旗に気づくまで

右下のコマの左下に、ユーカリの木に引っかかった障子が見える。

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p88)

左上のコマで、降伏を呼びかける伝単をすずが左手で握りつぶしている

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p88)

「そんとな暴力に屈するもんかね」とばかりに。

バケツを持って水汲みに行くすず

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p92)

「ガス抜き」であることはすず自身が良く判っていた。だからp92)「うちはこんなん 納得出来ん!!!」とは言ったものの、居た堪れなくなったすずは、その場を立ち去ろうと、必要もないのに水汲みに。

「………み」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p93)

「ガス抜き」済みで、やや無気力気味に井戸で水を汲んだすずが、台所の水瓶に向かおうとすると、その手前には泣き崩れる径子が。

  • 次のコマですずの左手が右側に見えるので、すずは(径子を見て)引き返している。

そしてバケツの水を持ったまま行くあてが無くなり、(後に太極旗に気づく事になる)畑の方に向かう。

右下のコマで、飛んでいく伝単がすずの右手に重なることで、まるで包帯が解けていくように見える

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p93)

暴力の象徴と思っていた伝単が、すずの包帯を解くように、「正義」の真の姿を解いて明らかにしていく。

「この国から正義が飛び去ってゆく」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p94)
  • 暴力(の象徴と思っていた伝単)が飛び去ってゆく
  • そして「この国から正義(だと思っていたもの)が飛び去ってゆく
    • 暴力と正義、違うものだと思っていた二つが、同じように飛び去っていく。

そして、下記の通りすずの視界( = 意識)のほんの片隅にしか目に入っていなかった太極旗に気づいたすずは、それをきっかけに

  • 同じように飛び去っていく二つ(暴力と正義)が、同じものだと気づかされる。
  • そしてさらに同じものが、もう一つ。

暴力、あるいは「それがすず(自身)の正体」

「暴力で 従えとった いう事か」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p94)

1つ前のコマの太極旗、即ち併合されていた朝鮮を、暴力で従えていた。

  • そして、下記で触れるとおり実は、すず自身が、しかも何重もの意味で、暴力を振るう側でもあるのだ。

「じゃけえ 暴力に 屈する いう事かね」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p94)

暴力で立場の弱い者を従えるのが「正義」なら、より強い暴力に屈するのも「正義」という理屈になる。異議申し立てをする資格はない。

  • 「それがこの国の正体」。

そして下記で触れる内容を踏まえれば、これは実は、下線部の「この国」を「すず(自身)」に差し替えた

  • 「それがすず(自身)の正体」

と読めるようにもなっている。

なお、ここでいう「暴力」には家父長制(による女性の支配)も含まれる。

  • 例えば、家父長制のもと「リンを従えとった二葉館の女主人もまた家父長制に屈」していたわけだ(女郎屋ゆえ)。
  • 米や大豆はそういう仕組みの下で奪い取られていた…

『鬼イチャン』作/浦野すず」で家父長制が戦争を起こし、自滅したかと思いきや現代に生き続けているのだぞ、と示されているが、ということは即ち、現代に生きる読者(のうち男性)自身が、実はここで言及されている「暴力」を(無意識に)ふるっている主体なのでは、と問われているのかも。

「うちも 知らんまま 死にたかった なあ……」

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p95)

だから「うち『も』」なのは(一見、晴美を指しているように思えるが)、読者もまたこの仕組みの一部で、この物語を読んで(それを)知ってしまった筈、ということでもある。

そして「すずの怒りの理由」で触れた通り

というのも上記「じゃけえ 暴力に 屈する いう事かね」で触れた構図と全く同じ。それは、すずもまた自身が振るう「暴力で従えとった」側でもあるということを象徴的に示している構図なのだ。

  • そんな構図も
  • そういうタブーを抱え込む原因も
  • そして自分自身が暴力を振るう側でもあることも

知る事が無ければこんなに苦しまずに済んだのではないか。そういう思いが表現された言葉なのだろう。

  • 事程左様にすずは考えを重ねていて。彼女が「なんも考えん、ぼーっとしたうち」であったことなど一度も無いのだ。
  • そもそも、例えば「第9回(19年5月)」でも描かれているように、ぼーっとしている暇は「嫁」にはないわけで。

誰も「戦争」という言葉を発していない

すずの台詞にあるのはあくまで「暴力」である。

  • すずのみならず、どの登場人物の台詞にも「戦争」という言葉が無い。
    • 『この世界の片隅に』は戦争を背景にした物語なのに

「戦争」という言葉が避けられているのは、具体性に欠けるから。

例えば

  • 暴力に反対ですか賛成ですか」と問われれば、大抵の人は反対の立場を取るだろう。
  • しかし「戦争に反対ですか賛成ですか」と問われた場合はどうか。

(戦争が暴力の応酬であるのは明らかなのに)途端に立場があいまいになるだろう。それは「戦争」という言葉を使った途端に、その言葉にその人の立場や都合が含まれてしまうから。

  • (その人にとって)自衛のための戦争だから賛成とか
  • (その人にとって)正義の戦争だから賛成とか
  • (その人にとって)自分が巻き込まれない戦争でそれを眺めている分には気分が高揚する(あるいは儲かる)から賛成とか

勿論どれであっても賛成して良いわけがない。繰り返すが如何なる戦争も暴力の応酬なのだ

  • なのに「戦争」という言葉のオブラートに包んだ途端
  • その「暴力」という真の姿も包み隠される。

そうなのだ。

  • 「戦争」という言葉自体が「隠れ蓑」なのだ。
    • (一般に考えられているのとは違って)
  • だから「戦争」という言葉を発する輩には注意したほうがいい
    • その輩が右左関係なくどのような立ち位置であろうとも
    • 「戦争」という台詞を敢えて作中で避けることで、作者はそう警告しているのだろう。

太極旗

この回では太極旗が4箇所、太極図が1箇所描かれている

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p94)
  • 下巻p94「この国から正義が飛び去ってゆく」のコマ右下に太極旗。
    • 同じコマの空の雲の形が太極図。
  • 下巻p94上から2段目に大きめの太極旗。
  • 下巻p95「うちも知らんまま死にたかったなあ……」のコマの消失点の右側、遠方の屋根が描かれている中に太極旗。
  • 下巻p96最後のコマのバケツの右側に太極旗。

太極旗と太極図模様の雲

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p94)

「この国から正義が飛び去ってゆく」までは、この「正義」は今まですずが信じてきたp92)「最後のひとりまで戦う」正義。

  • 太極旗を見て、その「正義」が、「そんとな暴力に屈するもんかね」と言っていたその暴力と等価なものに過ぎないことに、今更ながらすずは気づく。
  • そしてそれが表層的な水準での理解であり、一枚皮をめくった深層部分には、すず自身が加害者の側にもなる何重もの構図があることにも、(下記で触れるとおり)すずは意識の深層で、気づいている。

また、太極図模様の雲のコマの下の端に、2つ先のコマで登場する太極旗が描かれているのは、すずの視界( = 意識)のほんの片隅にしかそれが目に入っていなかったことを表している。

  • さらに「第9回(19年5月)」で視界を埋め尽くす日の丸の旗との対比からも、すずの意識の中での彼らの扱い振りが見てとれる。

まさに『この世界の片隅に』太極旗を見つけたのだ。

下段のコマで、(咲いていない筈の)カボチャの花が咲いている

こうの史代(2009)『この世界の片隅に 下』双葉社. p96)

太極旗が指し示す存在は、すずの視界(=意識)のほんの片隅にしか目に入っていなかった。居るけれども殆ど存在しないかのように。

同じように女性も、家父長制の下(あるいは歴史において)、意識のほんの片隅にしか目に入っていなかった。居るけれど殆ど存在しないかのように。

咲いていない筈のカボチャの花が咲いているのは、読者にそのことを気づかせる(連想させる)ための仕掛け

  • 咲いているのに気づかなかった→読者も気づいていないことがあるぞ
  • 花が女性を連想させる
  • 女性の好むものとして芝居浄瑠璃芋蛸南瓜という言い方がされることがある など。

つまり、すずは

  • 女性という意味では無視された存在かもしれないが
  • 太極旗(が指し示す存在)を意識の片隅に追いやっていたという意味では無視していた主体である

という二重性が描かれているのだ。

  • 上記「じゃけえ 暴力に 屈する いう事かね」の項目で説明したように、
    • 女性同士であっても
    • 読者であっても
    • そして勿論「ヒロシマ」も
  • そうした二重性(※加害者の側面があるということ)から逃れることはできない)。

『芋たこなんきん』(芝居浄瑠璃芋蛸南瓜という言い回しが題名の由来とされる)

漫画アクションで『この世界の片隅に』の掲載が開始

  • 「冬の記憶」は月刊まんがタウン2006年2月号
  • 「大潮の頃」から漫画アクション(2006年8月15日号)
  • 「第1回」は2007年1月23日号

されたのと同時期に放送されていた2006(平成18)年度下半期のNHK連続テレビ小説が『芋たこなんきん』。芝居浄瑠璃芋蛸南瓜という言い回しが題名の由来とされるこの作品のモデルかつ原案者は小説家・随筆家の田辺聖子で、彼女はすずの2学年下。

時系列で女性の半生を描くことの多い一般的なNHK連続テレビ小説とは違い、この作品では彼女が軍国少女だった戦時中については回想の形で語られている。

  • この回想は作中作(「第4回(19年2月)」で触れた『欲しがりません勝つまでは』にあたる)で、入れ子構造のmise en abymeになっている。アンドレ・ジッドの『贋金つくり』のように…
    • そしてこの『贋金つくり』が発表されたのは1925(大正14)年。そう、すずの誕生年。

そして「第20回(19年11月)」で触れているように、この『この世界の片隅に』も(わざわざ○○年○月と副題に示していながら)実は時系列ではないところがミソ。


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  • 更新履歴
    • 2022/04/07 – v1.0
    • 2022/06/10 – v1.1(「下段のコマで、(咲いていない筈の)カボチャの花が咲いている」を追記)
    • 2022/08/15 – v1.2(すずの怒りの理由「うちはこんなん 納得出来ん!!!」を追記)
    • 2022/10/10 – v1.3(「芋たこなんきん」を追記)
    • 2022/12/23 – v1.3.1(用語の修正)
    • 2022/12/26 – v1.4(「うちも 知らんまま 死にたかった なあ……」の台詞の背景を追記)
    • 2022/12/27 – v1.4.1(「暴力的なタブー」について説明を追記)
    • 2023/02/17 – v1.5(「暴力、あるいは『それがすず(自身)の正体』」を中心に、加害者としての側面を追記。他全体的に読みやすさを改善。)
    • 2023/03/13 – v1.5.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/04/24 – v1.6(「作中作」について明記)
    • 2023/08/02 – v1.6.1(誤字修正)
    • 2023/08/10 – v1.7(「覚悟する謂れなど、ない」を追記)
    • 2023/08/12 – v1.8(「上段のコマの玉音放送が、ところどころ途切れている」を追記)
    • 2023/08/15 – v1.9(「水を汲み、太極旗に気づくまで」を追記)
    • 2023/08/15 – v1.9.1(「第20回(19年11月)」へのリンクを追加)
    • 2023/08/16 – v1.10( “誰も「戦争」という言葉を発していない” を追記)
    • 2024/05/30 – v1.10.1(脱字修正)
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