第3回(19年2月)

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「第3回(19年2月)」について

出征の予感

「叔父様にも宜しくお傳へ下さい。」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p73)

この時点で既に「森田の叔父さん」は不在。

森田家宛の絵葉書で、さりげなく、出征した事が示されている。もちろん「鬼いちゃん」も。但しこの時点では存命と、少なくともすずには認識されている。

そして、(該当する年齢の男性は皆出征しているのだから、周作も出征するのではないかと予感させることが)次の「第4回(19年2月)」のオチの伏線でもある。

「嫁 = 無償の労働力」の予感(…ではなくて、もう始まっている現実)

早朝の水汲みから始まるすずの一日

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p79)

新婚初夜が明けたら即「嫁 = 無償の労働力」としての現実が始まっている。そしてそれは1944(昭和19)年当時に限られた話ではなく、十分顧みることも解決されることもなく現代に続いているし

加えて、家事労働を無償の労働力に担わせるという発想は、女性にとっての問題というだけではなく、例えば介護労働が不当に低く評価されている(いわゆる「社会の嫁」という扱い)こととも無関係ではないようだ(下記リンク先を参照されたし)。

ほくろが決め手…なのだろうか?

「うちらどっかで 会いましたか?」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p75)

水原哲からの疑問をそのまま口にするすず。

「ほいで昔も ここへほくろが あった」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p76)

第44回 人待ちの街(21年1月)」下巻p138)「初めて会うたんは ここじゃ」「わしは すずさんは いつでも すぐわかる ここへほくろが あるけえ すぐわかるで」に繋がる伏線。だが実はそれは、ほくろが「その人であることを示す」という一般的な意味合いではないのだった。

新婚初日にも小学校時代からの筆入れ

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p73)

絵柄は梅に鶯…ではなくて、梅にメジロ。「梅に鶯」は梅と鶯の「鳴き声」の取り合わせのことで、メジロはその時期目に付きやすいことから、鶯と混同されがち。つまりすずも誰かと混同されている、ということを示しているのだ。

梅にメジロ(OM-1, 40-150mmF2.8 + 2x Teleconverter, 1/2500, f5.6, ISO2000)
梅にメジロ(OM-1, 40-150mmF2.8 + 2x Teleconverter, 1/2500, f5.6, ISO2000)

鶯はこちら(※Wikimedia Commons経由で画像をお借りしました)

Japanese bush warbler M.Nishimura, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

「同じく姉上。 周作さんに ソツクリなのです。」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p73)

そして「第33回(20年6月)」下巻p39)「ほんまに周作さんに 似とりんさる」という重要な台詞の下準備が早くもなされている。

その姉上の名は黒村径子だと絵葉書からわかる。

祝言の日取り

「今回は急いて 済まんかった」

こうの史代(2008)『この世界の片隅に 上』双葉社. p76)

第4回(19年2月)」(1944(昭和19)年2月21日、月曜日)で隣組の面々と初顔合わせするすず。当時の隣組はいわばライフラインであるから「嫁 = 無償の労働力」としてやってきたすずが何日も未接触でいるとは考え難く、また他の祝言参加者も都合がつけやすかったかもしれないと考えれば、祝言を挙げたのは前日の日曜日(1944(昭和19)年2月20日)だったのだろう。

1944(昭和19)年2月のカレンダー
1944(昭和19)年2月

サンが「最近足を痛め」たのが「急い」た理由だとすると、結婚の申し入れに行った「第1回(18年12月)」は青葉が呉を出撃した1943(昭和18)年12月15日より前の筈(なるべく兄の命日に近い日曜日だとすれば、1943(昭和18)年12月12日)だから、急いだ割には2ヶ月以上も経過している。

1943(昭和18)年12月のカレンダー
1943(昭和18)年12月

しかもそれだけ時間があったにもかかわらず、すずは周作と祝言前に会わせて貰えなかったのみならず、恐らく写真も見せられていない。小林の伯母さんもすずの顔をこの日初めて見ている風(p66)「こちらが すずさん ですか」)なので、互いに写真のやり取りをしなかったのだろう。まるで『この世界の片隅に』の世界には写真なんて存在しないかのようだ(※「第24回(20年2月)」の扉で要一の遺影が描かれているから全く存在しないわけではないが…)。

  • あるいは北條家側が、すずが予め周作の写真をじっくり見ると「やっぱりこんな人知らない」とこの結婚話を断ってくるかもしれないと危惧して、あえてやり取りをしなかった、ということだろうか。
  • ただ、「第2回(19年2月)」で触れた径子の事情を踏まえれば、もしかするとこの結婚話を御破算にする事も含めての相当厳しい話し合いが何度もなされ、それで2ヶ月も要してしまった(そして、そういう状況だから写真のやり取りどころではなかった…)のかもしれない。

ところで祝言の日が1944(昭和19)年2月20日だったとして、この日は所謂「大安」の日ではない。

そもそも浄土真宗では、宗祖とされる親鸞が「日の吉凶にとらわれるのは悲しいことだ」と『正像末和讃』で説いており、その点からも、祝言の日が「大安」の日でないことには違和感がない。

その上、後程「第25回(20年2月)」で触れるある童謡詩人の結婚式はすずと同じ2月、1926(大正15)年2月17日(水曜日)「大安」だったのだ。「何事においても吉」の筈の。

そして「第33回(20年6月)」で描かれた1945(昭和20)年6月22日も「大安」なのだ…


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更新履歴

  • 更新履歴
    • 2022/02/21 – v1.0
    • 2022/08/10 – v1.1(「祝言の日取り」を追記)
    • 2022/11/29 – v1.2(「径子」という名前の由来について追記)
    • 2023/03/13 – v1.2.1(「次へ進む」のリンクを追加)
    • 2023/04/20 – v1.3(結婚の申込から祝言まで2ヶ月以上要した理由について追記)
    • 2024/02/16 – v1.3.1(親鸞の和讃について追記)
    • 2024/03/25 – v1.3.2(カレンダーを追加)
    • 2024/10/25 – v1.3.3(引用の表記方法を修正)
    • 2025/02/18 – v1.4( “「嫁 = 無償の労働力」の予感(…ではなくてもう始まっている現実)” を追記)
    • 2025/03/14 – v1.4.1(誤字修正)
    • 2025/03/21 – v1.5(「梅にメジロ」と鶯の写真を追加)
    • 2025/03/22 – v1.5.1(「最終回 しあはせの手紙(21年1月)」v1.24の「千鶴子と孤児の少女」に対応した記述を追記)
    • 2025/06/15 – v1.5.2(目次を追加)
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